Aさんがもっている最初の記憶は、「息苦しい」という感覚です。海の中でもがきながら息ができないようなこの感覚は、「きっとお腹の中にいて、虐待されていた時の記憶じゃないか」とAさんは考えます。
身体を持ち上げられ畳に叩きつけられた時の浮遊感と衝撃、トイレの床を拭いた雑巾で顔を拭かれた時の嫌悪感、いつ殴られ蹴られるかと布団に丸まっていた時の恐怖感―物心つく前の頃の記憶が、いまだにAさんを苦しめます。
幼少期、両親からは毎日のように暴力や暴言を浴びせられ、きょうだいからも馬鹿にされました。常に目の下に隈ができ、やせ細っていたAさんのことを、母親は陰で「どうなってもよい子」と話していたといいます。
高校は中退し、就職しても集中が続かず体調も崩し、どこにいっても「使えない人間」として扱われました。結婚するも、経済問題を抱えた夫と離婚し、一人娘の子育ても順調にはいきませんでした。60代になった今、一人で暮らし、心療内科に通う日々です。
あなたは知っているでしょうか。Aさんのように、子ども時代に負った心の傷のために、一生苦しみ続ける人たちがいることを―。
「ACE(エース)」という用語は、Adverse Childhood Experiences の頭字語であり、「逆境的小児期体験」や「子ども期の逆境体験」などと訳されます。ACEは、0歳から18歳までの子ども時代に経験する、トラウマ(心の傷)となりうる出来事を指します。たとえば、虐待やネグレクト、家族の精神疾患や依存症、近親者間暴力などに曝される体験をいいます。
1990年代からアメリカで始まったACE研究が明らかにしたことは、経験されたACEの種類がより多い人ほど、後年、心臓病や糖尿病、薬物乱用、自殺念慮、失業や貧困などに苦しむ可能性が高くなるということでした。
つまり、子ども時代により多くの逆境に曝された人は、生涯にわたって心身的にも社会経済的にも、生きづらい状況に置かれる可能性が高いということです。
虐待やネグレクト、さまざまな家族の問題は、センセーショナルに描かれることが多い話題です。しかし本書では、あくまでもACE研究という学術的視点に立って、ACEが人生に与える長期的な悪影響の実態を、実証的なデータに基づいて議論します。
そもそもACE研究の知見はほとんどが英語論文で発表され、日本の一般の人々には知られていません。研究知見を日本語で伝え、日本社会がこれから取り組むべきことについて議論できるための確かな情報を広めたいと企図し、本書を世に出すことにしました。
本書では、疫学、精神医学、神経科学、心理学、ソーシャルワーク研究などを分野横断的に俯瞰し、ACE研究が明らかにしている主要な知見を紹介します。また、京都大学が実施した全国2万人へのアンケートに基づき、日本社会におけるACEサバイバーが被っている不利の実態を示します。さらに、ACEサバイバー本人へのインタビューや国内外での取り組み事例を踏まえて、「ACEサバイバーが不利にならない社会」への処方箋を具体的に提言します。お忙しい読者の方は、どうぞ強調された太字の箇所を拾い読みしてください。
本書を手に取ってくださったあなたも、家族に苦しんだ子ども時代を過ごした方かもしれません。そのような過去がある家族や恋人、友人、クライエントが身近にいる方かもしれません。あるいは、日々、子どもたちに向き合っている方かもしれません。皆さんが、ACEサバイバーが被っている不利の実態とその原因を少しでも理解し、未来への展望を開くために、本書が役に立つことを心から願っています。
付記1 「はじめに」冒頭には、Aさんへのインタビューに基づく内容を、Aさんの許可を得て掲載しました。
付記2 本文中の百分率は、読みやすさのために小数点以下を四捨五入してあります。