ちくま新書

食パンと缶入りのコンデンスミルクの思い出
『日本人が知らない戦争の話――アジアが語る戦場の記憶』あとがきより

ちくま新書7月刊『日本人が知らない戦争の話――アジアが語る戦場の記憶』より「あとがき」の一部を公開します。子どもの頃、魚釣りに行くときの「父のお弁当」はいつも食パンと缶入りのコンデンスミルクだった。その背後にある戦争の記憶とは? ぜひご一読ください。

 私は、戦争が終わって6年後に生まれた。だから自らの戦争体験はない。ビルマ(現在のミャンマー)戦線に送られた父は、私が子どもの頃、よくビルマでの戦争体験を一方的に話していた。
 私が小・中・高校時代、毎週、好きなテレビ番組の放送が待ち遠しかった。なかでも水曜、夜八時、アメリカの連続テレビドラマ『コンバット!』(TBS系列で1962年から67年放映)は非常に楽しみで、一台のテレビを家族そろって見ていた。主人公のサンダース軍曹がドイツ軍との戦闘場面で、仲間とジョーク交じりで会話しているシーンでは、「命がけで戦争ばしようときに、冗談なんか言えるもんか」と父は福岡弁でつぶやいていた。われわれ子どもたちは、「今、大事な時やけん、ちょっと黙っといて!」と叫んだものである。何かにつけて、戦争の話がよく出てきた。「また、戦争の話!」とうんざりした。
 本書の執筆をしながら、著者である私自身が父の戦争体験をあまり知らないままでいることが恥ずかしくなってきた。大学進学で生まれ育った福岡市の実家を離れて以来、里帰りしたときにでも、父からゆっくりビルマでの戦争体験を聞こうと思いながら、「今度、今度……」と先延ばしにしてきた。そんな父も10年ほど前に他界した。今になって考えてみれば、私自身、戦争に関する基本的知識が不足していたため、父から戦争の話を詳しく聞こうという意欲が乏しかったのだ。
 本書の執筆をしているときに、自分の戦争体験を少しずつ書き溜めていた父の文章が残っていることを知った。それらを読むと、父のビルマでの戦争体験がわずかながら見えてきた。
 太平洋戦争が始まった明くる年の1942(昭和17)年2月、父は現在の北九州市の門司港を出発し、ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)に寄港し、3月にビルマの首都、ラングーン(現在のヤンゴン)に上陸した。父の話のなかには、ラングーン、マンダレー、ラシオ(ラーショー)、サルウィン川などの地名がよく出てきた。地図で調べてみると、蔣介石率いる中国国民政府を支援する物資を運ぶ援蔣ルートであるビルマ雲南ルート(通称、ビルマルート)のビルマ側の起点がラシオであった。父の部隊は、このビルマルートを断絶するのが役目であったようだ。
 日本の敗戦が近づくと、食糧が乏しくなり、病気になる兵隊が増えた。父もアメーバ赤痢にかかり、危うく死ぬところであったという。日本の敗戦により捕虜となった父は、トングー(ラングーンとマンダレーの中間に位置)などの捕虜収容所でさまざまな作業に従事させられた。トングーの近くで収容所まで四列縦隊で歩かされた際、列の端にいた父は、ビルマ人から罵声を浴びせられ、唾を吐きかけられたという。とはいえ、父は私たちにはビルマ人の悪口などはほとんど言わなかった。
 ビルマで日本軍が戦ったのは英印軍であった。英印軍の指揮官はイギリス人で、兵士はインド人であった。イギリス人の指揮官が見ていないところでは、日本兵にやさしいインド兵が結構いたようだ。あるとき、インド兵が甘いコンデンスミルクをかけた食パンを父にくれた。「世の中にこげなうまかもんがあるとねぇ! こげなうまかもんば食べようイギリスに、日本が勝てるわけはなか」と、その味にびっくりしたそうだ。父親が私たち子どもを連れて魚釣りに行くとき、父の弁当は、決まって食パンと缶入りのコンデンスミルクであった。「オレは、これがあればよか」と口癖のように言っていたのが思い出される。
 終戦の翌年、捕虜収容所から解放された父は、1946年7月、ラングーンを出発し、広島市の宇品港に帰還した。父が所属していた龍兵団とよばれる師団の2万8980名のうち、生還できたのは1万1085名(全体の38パーセント)だったそうだ。もし父が戦死していたら、当然ながら私も生まれていなかったのである。
 父の理解と支援のおかげで、私は大学院に進学させてもらい、大学の教員になることができた。講義のなかで東南アジア、中国、アメリカなど世界各地について話をしてきた経験からいえば、アジア・太平洋戦争に関する学生の知識は、残念ながら乏しいと言わざるを得ない。高校の世界史や日本史の授業で、アジア・太平洋戦争について学んだはずである。しかし、思い起こせば私自身も、高校生のときの世界史、日本史の授業では「時間がないので、太平洋戦争のところは、自分でよく勉強しておきなさい」と先生に言われて、三学期の授業が終了したような記憶がある。
 アジア・太平洋戦争に関しては、戦争をテーマとする歴史小説、戦争を記録した本や写真集、軍人の伝記などが数多く見られる。その一方で、戦場となった地域で生活していた民間人についての読者の関心・知識は乏しいといえよう。戦争では、単に敵味方の軍隊が衝突するだけではない。戦場となった地域は、多くの民間人が生活している場所である。また、戦争は一時期の話だけで終わるものではない。今につながる話であることを認識する必要がある。
 アジア・太平洋戦争は、従来、単に太平洋戦争とも呼ばれてきた。その名称が示すように、日本ではハワイ真珠湾の奇襲攻撃以降のアメリカとの戦争のイメージが強く、中国・東南アジアにおける戦争についての認識や関心は乏しいのではないだろうか。そういう思いが強くなって、本書を執筆したい、執筆しなければならないと思った次第である。


 

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