PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

樺太戦を記録した必読の名著
金子俊男『樺太一九四五年夏――樺太終戦記録』書評

第二次世界大戦末期の1945年8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告します。当時日本領だった南樺太にもソ連軍は侵攻し、わずか2週間で4000人以上の命が奪われました。沖縄戦が日本における唯一の地上戦だと政府答弁でもたびたび述べられていますが、樺太でも、民間人を巻き込んだ大惨劇が起こっていたのです。この熾烈な戦争を記録した金子俊男氏の『樺太一九四五年夏――樺太終戦記録』の書評を、ノンフィクション作家の梯久美子さんが書いてくださいました。

 宗谷海峡をへだてて北海道の北に位置するサハリン島。その南半分は、日露戦争の勝利によって一九〇五年から日本領となり、樺太と呼ばれていた。漁業、林業、鉱業の資源が豊富なこの地に多くの日本人が渡り、一九四五年八月一一日にソ連軍が侵攻してきたときには約四五万人が暮らしていた。

 一般市民を巻き込んだ地上戦が行われた地として知られているのは沖縄だが、樺太でもソ連軍の砲撃や銃撃によって市民が犠牲になっている。その多くが、皆がもう戦争は終わったと思っていた八月一五日以降のことだった。戦火に追われて着の身着のままで島から脱出した引揚げについても、樺太の悲劇は満州ほどには知られていない。

 その夏、樺太で何が起こったかを詳細に綴ったのが金子俊男著『樺太一九四五年夏――樺太終戦記録』である。樺太の終戦史として名高い著作だが、入手がむずかしい状況が長く続いていた。軍官民それぞれの当事者による膨大な証言を集めた臨場感あふれるこの本が、いまこの時期に文庫として復刊されることには大きな意味がある。

 普通の人々の生活の場に、国境を越えて、他国の軍隊が突然侵攻してくる。市街戦が行われ、空爆で建物が焼かれ、女性や子供たちが列車や徒歩で、住みなれた町や村を離れる――。この本に描かれている状況は、ロシアによるウクライナ侵攻の報道で私たちが目にしたものと同じである。

 私は二〇一七年、二〇一八年、二〇一九年の三度、サハリンを旅した。そのときに訪れたり通ったりした、旧樺太の場所のすべてが本書には出てくる。町や村、山や川、通った道、乗った鉄道、駅……。

 たとえば本書の冒頭で、ソ連軍が国境を越えて侵攻してくる半田、古屯、気屯、といった町は、最初のサハリンの旅では列車で通り、三度目の旅では車で訪れた。旧国境線の南側には、日本軍のトーチカが残っていた。ちなみに古屯という地名は、先住民ニブフの言葉で町を意味する「コトン」に由来して日本が命名したものだが、戦後、ソ連によって、勝利を意味する「ポぺジノ」に変更された。ソ連にとって侵攻と勝利は、地名に刻まれるべき輝かしい歴史なのだ。

 国境付近以外でもっともはげしい戦闘が行われたのは、大陸と向かい合った西海岸の真岡である。八月二〇日朝、ソ連軍が上陸。市民も多く犠牲になった凄惨な状況は、本書「地獄図絵、真岡の町」の章に詳しい。

 この町の郵便局で殉職した九人の若い女性がいた。電話交換手だった彼女たちは、島民の緊急疎開が始まっても真岡に残り、業務を続けていた。郵便局周辺にも戦火が及び、交換室に弾丸が飛び込んでくる状況の中、戦況を電話で伝え続けた九人は「皆さん これが最後です さようなら……」との通信のあと、青酸カリを飲んで自決する。

 彼女たちの中には十代の女性もいた。私は稚内市にある北方記念館で彼女たち全員の顔写真を見たが、まだ少女っぽさの残る面差しに胸がつまる思いがした。

 真岡(現在のホルムスク)は二度訪れた。すっかりロシア風の町並みになっていたが、九人が殉職した郵便局の跡地は、現在も郵便局と銀行の入る建物になっていた。

 町の背後の熊笹峠付近では、日本軍とソ連軍の激しい戦闘が行われた。ここを訪れたときに驚いたのは、頂上に立つソ連の戦勝記念碑の巨大さである。そびえたつ威容で、てっぺんに巨大な大砲が乗っている。ここにもまた、日本軍のトーチカがいくつも残っていた。

 本書は、北海タイムスに連載された「樺太終戦ものがたり」がもとになっている。連載は四〇〇人の関係者から記録を借り、体験を聞き取ってまとめたもので、単行本化に当たって一〇〇を超える資料や手記を追加したという。終戦前後の樺太を描いてこれほど充実したものは類がなく、第一級の資料であると同時に、戦争の時代を生きた日本人の記録でもある。

 北海道は樺太から引揚げてきた人の多いところで、著者の両親も引揚げ者だという。地方新聞の心意気と使命感を強く感じさせ、その意味でも一読の価値がある。

 あとがきによれば、新聞連載のスクラップを読んで、単行本にすべく版元を紹介したのは、かの吉村昭氏だったという。徹底した取材と調査で知られ、誰よりも事実に厳しい作家である吉村氏が、一冊の本として世に出す価値があると判断した理由が、本書の、たとえば一章分を読んだだけでも納得できるだろう。

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