「しばいがかった」―仮名と漢字の曖昧さ
先日、パソコンで文章を書いていたときのことです。「芝居がかった」と書こうとして、「しばいがかった」と入力し、仮名漢字変換をしたところ、思いがけない変換結果が出てきました。それは「司馬懿(しばい)が勝った」というものです。
一瞬戸惑いましたが、すぐに「司馬懿」が三国時代の中国の軍師であることを思い出しました。曹操に仕え、諸葛亮孔明のライバルと紹介されることも多い人物です。「芝居がかった」とのかけ離れ具合もさることながら、「司馬懿が勝った」がそれだけで一つの文をなしていることに驚きました。しかも、まったく無意味な文ではなく、実際にありそうな状況を表しています。改めて、日本語はどういう表記をするかによって意味が大きく変わるのだなと実感しました。
日本語の書き言葉では、平仮名、片仮名、漢字が使われますが、「しばいがかった」のように、平仮名だけの表記では解釈が一つに決まらないことがあります。とくに日本語には、発音が同じでも意味が違う「同音異義語」が数多く存在します。たとえば「こうしょう」という音を持った語は、「交渉」「高尚」「公称」「鉱床」「校章」を含め、五〇個近くあるそうです。漢字を使わずに仮名で書くと、どの「こうしょう」なのかが分かりづらくなってしまうでしょう。「おしょくじけん」も、そのままでは「汚職事件」なのか「御食事券」なのか分かりません。日本語は漢字まで覚えなければならないので面倒ですが、漢字で書くことで、同音異義語の曖昧さが解消されているのです。
ただし、「漢字を使いさえすれば曖昧ではなくなる」というわけではありません。たとえば、「大人気」という言葉を見て、皆さんは真っ先にどのような「読み」を思い浮かべますか? おそらく多くの人は「だいにんき」を思い浮かべると思いますが、私はかなりの頻度で「おとなげ」を思い浮かべてしまいます。
「大人気」の中に入っている「人気」も、「にんき」なのか「ひとけ」なのか曖昧です。「人気がない」という言葉も、文脈が分からなければ、誰かについて「人気(にんき)がない」と言っているのか、どこかの場所について「人気(ひとけ)がない」と言っているのか分かりません。つまり漢字で書いたがゆえに曖昧になる例もたくさんあるのです。
選挙のポスターなどで、候補者の名前の一部が平仮名で書かれているのをよく見かけます。私の名前(川添愛)を例にすると、「かわぞえ愛」のような表記です。これも、読み方の曖昧さを避けるためでしょう。候補者の立場からすれば、自分に投票してくれる人が名前を正しく書いてくれないと困りますから、読み方を覚えやすく、書きやすいように工夫しているのだと思われます。
難しい漢字を平仮名で書く例もよく見られます。伝染病など、よくないものが広がることを「蔓延(まんえん)」と言いますが、「蔓」という字が難しいので、よく「まん延」と書かれます。このように平仮名と漢字をミックスした表記は「交ぜ書き」と呼ばれ、「かえって読みにくい」と批判されることもあります。哲学者の古田徹也さんの著書『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)には、「手が打たれないまままん延」という面白い例が紹介されていました。これを読みやすくするには、「手が打たれないまま、まん延」のように、読点を入れた方がいいでしょう。
先日は、新聞で「夢のジェンヌヘ研さん 宝塚音楽学校、一一一期生入学」という見出しを見ました。私は一瞬、「え! 歌手の研ナオコさんが宝塚に入学したの?」と驚いてしまいましたが、少し考えて、「あ、〝研さん〞っていうのは〝研(ナオコ)さん〞のことではなくて、〝研鑽(けんさん)〞のことか!」と気づきました。つまり「夢のジェンヌヘ研さん」とは、タカラジェンヌになるために研鑽する、という意味だったわけです。
「さん」という表現は敬称としても頻繁に使われますので、「研鑽」の「鑽」を平仮名で表記したものとして認識するには、ちょっとした頭の切り替えが必要です。こういう表記もそのうち何の問題もなく理解できるようになるのでしょうが、私は慣れるまでに少し時間がかかりそうです。
「この先生きのこるには」―どこで単語を区切るのか
文のどこでどの文字を使うかということは、読む人が「単語の切れ目」を探すときに重要になってきます。英語では単語と単語の切れ目につねにスペースが入りますが、日本語ではそのような書き方をしません。日本語で単語の切れ目を見つける際には、平仮名、片仮名、漢字の使い分けが大きなヒントになります。
平仮名だけで書くと、どこが単語の切れ目か分からなくなることがあります。それを示す有名な例に、「ここではきものをぬいでください」というものがあります。この例は、「ここでは きもの(着物)を ぬいでください」とも読めますし、「ここで はきもの(履き物)を ぬいでください」とも読めます。この場合、「ここでは着物を脱いでください」あるいは「ここで履き物を脱いでください」のように漢字を使って書くと、単語の切れ目が分かりやすくなります。
もっとも、漢字と仮名が混じっていればつねに単語の切れ目が分かるというわけではありません。先日、誰かがネットに「この先生きのこるにはどうしたらいいか」と書いているのを見て、一瞬戸惑ってしまいました。というのも、私はこれを「この先生(せんせい) きのこるにはどうしたらいいか」と読んでしまい、「『きのこる』ってどういう意味だろう? きのこに関係する活動か何かかな?」と疑問に思ったからです。もう一度読んで、これが「この先(さき) 生きのこるにはどうしたらいいか」であることに気づきました。「この先、生きのこるには」のように読点が入っていれば、私も戸惑うことはなかったでしょう。
問題:「今年金いくらもらえる?」という文にも、二通りの「単語の区切り方」があり、それに伴う二つの異なる読み方と意味があります。どんな区切り方か考えてみてください。(答えは本書の巻末にあります)
「単語の切れ目」を考えたときに思い出すのは、お笑いトリオのロバートのコント「シャーク関口ギターソロ教室」です。このコントでは、ギターを習いたい人(ツッコミの山本さん)が「シャーク関口ギターソロ教室」にやってきます。彼はその教室のことを「シャーク関口(せきぐち)ギターソロ教室」、つまり「シャーク関口さんという人がやっているギターソロの教室」だと思っているのですが、コントの中で、実は「シャーク関(せき)さんという人がやっている〝口(くち)ギターソロ〞の教室」だということが明かされます。つまり、「シャーク関 口ギターソロ教室」だったわけです。結局、山本さんはギターソロを習えず、口でギターの音を出す「口ギターソロ」を習う羽目になってしまいます。「漢字と仮名の間を単語の切れ目だと思いやすい」という私たちの傾向を利用した、巧みなコントだと思います。
ちなみに、「外国人参政権」という言葉は、少し前まではコンピュータにとっては難しい言葉でした。学校で社会の勉強をした人は、これが「外国人 参政権(がいこくじん さんせいけん)」のように切れるということが分かるでしょう。しかし、昔のコンピュータは、これを「外国 人参政権(がいこく にんじんせいけん)」と区切ってしまうことが多く、研究者を悩ませてきました。高度に発達した今のAIはこのような失敗をほとんどしなくなっていますが、機械に言葉を扱わせるための研究の歴史には、このような苦労もあったのです。
*