ちくまプリマー新書

「学校」は人類の叡智が詰まった場所であり、ある種の洗脳装置でもある
『学校に染まるな!』より「はじめに」と「おわりに」を公開!

人類の叡智や未来への期待が詰まった学校ですが、同時に、巧妙な出来レースも仕組まれています。ひとりひとりが「学校」をサバイブするための1冊、『学校に染まるな!――バカとルールの無限増殖』より「はじめに」と「おわりに」を公開します!
 

はじめに

 童話の「三匹の子豚」を、みなさん知ってますよね。

 子豚の兄弟が、実家を出てそれぞれに家を建てます。長男はごく簡単な藁の家をさくっとつくります。次男は無難に木の家をつくります。三男は何日もかけてとても頑丈なレンガの家をつくります。

 そこに狼がやって来ます。藁の家も木の家も簡単に壊されてしまい、長男と次男は三男の家に逃げ込みます。狼はどうしてもレンガの家を壊すことができず、とうとうあきらめ、三匹は助かりました。……というお話でしたよね。

 この童話の教訓は何でしょう?

 きっと学校では、「だから楽をしないで三男みたいにコツコツと努力を重ねることが大事なんです」と習ったはずです。

 でもちょっと待ってください。

 襲ってきたのが狼だったから、レンガの家が有効だっただけですよね。もし洪水に襲われたら、次男の木の家を箱船か筏にすれば助かります。もし熱波に襲われたら、長男の藁の家で暑さをしのげばいい。三者三様の家があればこそ、さまざまな種類の危機に対応できるのです。

 このお話の本当の教訓は、三匹の子豚がそれぞれの特性を活かして自分のやり方で家を建てるのを黙って見ていたお母さん豚が偉いということです。

 学校では「みんな三男みたいになりなさい」と教えがちです。でも長男や次男は、それに染まっちゃいけないんです。むしろ、藁の家や木の家にもそれぞれ利点があると、反論できなきゃいけません。

 ……本書のタイトルには、そんな想いを込めています。サブタイトルの「バカ」は、自分の頭で考えないひと、くらいの意味です。

 

 ところで、みなさん、学校は好きですか?

 学校を舞台にいろんな楽しいことを経験できるのが事実である一方で、学校がなければもっと楽しい時間がすごせるのになと思うこともたくさんありますよね。

 宿題とかテストとかがなければいいんだけど……と思うひともいれば、苦手な友達に毎日会うのが嫌だなあと思うひともいるはずです。部活が楽しみで学校に行くひともいれば、部活がつらくて学校が嫌になっているひともいると思います。この先生の授業は好きだけど、あの先生の授業はさぼりたいと感じることもありますよね。

 そういう私は、たぶん結構、学校が好きなんです。

 学校に行くのが好きって意味じゃなくて、学校ってもの自体が好きなんです。その時代を生きる人間の内面の映し鏡だと思うんです。だから観察対象として面白い。楽しいことも、矛盾も、バカバカしいことも、いろんなものがつまってて、愛おしいなって思っちゃうんです。

 それでいろんな理由にかこつけて、いろんな学校を訪問させてもらって、そこで子どもたちがどんな表情をして何を学んでいるのかとか、先生たちがどんな思いで授業準備をしているのかとか、授業以外でも行事や部活が子どもたちの人生にどんな彩りを添えているのかとか、そんなことを描いて本にすることを生業にしています。

 『ルポ名門校』(ちくま新書)とか、いろいろ書いてます。だから、まあまあ学校には詳しいんです。一方で『不登校でも学べる』(集英社新書)という本も書いていて、必ずしも学校に通わなくてもいいじゃんと思っています。

 私だって、自分が子どものころは、「学校行くのめんどくせーなー」って毎日のように思ってましたよ。学校に行くことが特別好きな子だったわけではありません。あくまでも、大人になってから学校という場所をふりかえって、学校って、人間の人間たるゆえんが凝縮されたすごく面白いところだなあと思うようになったということです。

 

 どんな小さな学校にも、人類の叡智が詰まっています。たとえば、ごくありきたりな公立小学校の図書室に置いてある本をぜんぶ読むことができたら、それだけで世界のどこに行っても通用する、相当な教養が身につくはずです。

 発達段階の近いたくさんの友達に会えます。馬が合う友達にも出会えるでしょうし、どうしても苦手な友達もいるでしょう。人間がたくさんいれば、心ときめくこともあるでしょうし、当然摩擦や衝突で傷つくこともあります。そんなことを通して、集団の中で自分の居場所を見つける経験ができます。

 教えたいという本能をもっている先生と、自覚的ではないにせよ学びたいという本能をもっている子どもたちが出会う場所でもあります。たいていの場合、双方の思いが行き違って、お互いに期待外れに見えてしまったりするわけですけれど、ときどきピタッと、教えたい本能と学びたい本能ががっちり手を結ぶことがあります。そんな瞬間が一回でもあれば、その学校に通っていた価値があったというものです。

 学校には、未来への期待も詰まっています。そこで育った子どもたちが、将来それぞれ立派になって、輝かしい未来の社会を築いていってほしいというビジョンがあります。お金の亡者に見える私立学校の理事長でも、自分の出世しか考えていないように見える教頭先生でも、子どもたちの将来のことは実は結構本気で考えています。それ以上に、つい自分がかわいいだけで(笑)。

 一方で学校は、子どもたちを現実社会に適応させる、ある種の洗脳装置の役割も果たしています。「世の中そんなに甘くない」とか「社会に出たら競争だ」とか、いまの大人たちが信じているいろんな思い込みを子どもたちにも刷り込もうとする力が働くんです。これがくせ者です。場合によっては子どもたちの足枷になります。

 要するに学校って、人類のありとあらゆる思惑が交錯する場所なんです。あるいは、その時代の人間が人間をどう見ているかってことが如実に表れちゃうところなんです。

 

 もちろん教育には未来を切り拓く力があります。でもそれは、大人たちが望ましいと思うことを子どもに吹き込み、望ましくないと思うことを禁止すればいいというような閉じた話ではありません。大人たちすら想像しなかった子どもたちの潜在能力が花開くような、未規定性に開かれた環境ほど、豊かな教育環境なんだと思います。

 だって、未来なんて誰にも予測できないですよね。しかもいまは先行き不透明な時代、正解がない時代っていわれているんですよ。なのにどうしても大人は、自分たちの予測の範囲で教育を考えてしまう。そういう大人たちこそ、物事には正解があるに違いないという発想から抜けられないひとたちです。

 言い換えると、子どもたちの可能性よりも自分たちの予測を重視してしまうんです。この場合の、大人たちの予測って、実は予測というより不安です。自分の不安に取り憑かれ、子どもの可能性を信じられなかったら、教育なんてできるはずがない! ……と、私は思います。

 「きっとこんな花が咲くんだろうな」「こんな花が咲いたらいいな」と思って毎日適度な水をあげ肥料をあげ、大事に大事に育ててみたら、思いもよらない花が咲いた!みたいなサプライズが、教育の醍醐味であり、学校はそのための花壇みたいなものなんだと思います。

 チューリップばっかりとかパンジーばっかりの花壇より、いろんな花が咲いている花壇が私は好きです。一般的には雑草と呼ばれるような草がたくましく生きていて、いろんなムシも遊びに来る花壇はもっと好きです。「ここに完璧に管理された理想的な花壇があります!」ってがっちりレンガか何かで囲われて隅々まで意図的に管理された花壇より、え、これ、花壇なの?ってくらいに、さりげなくなんとなく草花が囲われているくらいの花壇が好きです。個人的には。

 あ、そうそう。いま思い出しました。私、もともと学校の先生になりたかったんです。でもいろいろあって、先生にはならないで、学校を外から観察する仕事をしています。

 自分の学校をつくりたいなと妄想を膨らませていたこともありました。でも、いまはその妄想はやめました。紙幅があれば、どうして心変わりしたのかについても述べたいと思います。予告的に言っちゃうと、「理想の」とか「夢の」とか、学校に期待しすぎるのもよくないなって思ったからです。

 

 この本で私は、学校関係者ではないけど学校に詳しいひとという立場から、学校に通う意味だとか、学校で味わうさまざまなストレスへの対処法だとか、学校の選び方だとか、学校についてあらゆる角度から思いつくままに語っていきます。

 それなりに多くの取材経験にもとづきながらも、そもそもとるべき責任がないという意味での無責任な立場を利用して、教育の実践者や研究者にはおそらく書けないであろう少々過激なことも、本音で書きます。

 普段は大人向けに勇み足を諫めるように書いている内容を、今回は中高生向けに書きます。

 大人たちからのおせっかいに対する自己防衛のお役に立てれば何よりです。


 

おわりに

 本書はこれまでの私の著書約八〇冊のエッセンスを極限まで煮詰めた一冊といえます。

 

 第一章では、学校の勉強の意味を論じました。教科書を人類の叡智のフリーズドライに、先生をそれにお湯をかけるひとに、それぞれ例えました。

 第二章では、「これからの時代」をどうとらえたらいいか、を提案してみました。要するに、なんとかなるから焦りなさんな、という話でした。

 第三章では、競争社会がいかにデタラメであるかを暴きました。どうせデタラメなので、落ち込んだり有頂天になったりしないように、気をつけてください。

 第四章では、民主主義社会の市民の視点から学校を見てみました。ちょっと難しかったと思いますけど、民主主義は多数決じゃないということだけは覚えておいてください。

 第五章では、学校選びという状況を想定しつつ、学校の価値について語りました。偏差値を脇に置いて学校の魅力を語れるひとが増えてほしいと思います。

 第六章では、人生においては無駄こそ味わいだという話をしました。学校というシステムに染まってしまうと、つい忘れてしまう価値観です。

 第七章では、学校というものを生み出した、人間の業の深さについて述べました。人間は愚かだからこそ、愛おしい。学校も同じです。ダメでいい、ダメがいい。

 

 ぜんぶに賛同してはもらえないでしょうけれど、この本を読むまえとあとで、学校、社会、そして人生に対するとらえかたがちょっとでも変わったら、うれしいです。



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