先日、NHKの「チコちゃんに叱られる!」という教育番組に出演した。この回は、「彫刻はなぜ裸なの?」という問いをゲストらに答えさせるもので、それに関して解説したのであった。最初にこの企画を聞いたとき、彫刻は裸とは限らないので、せめて「彫刻に裸が多いのはなぜか」に変えてもらおうとしたが無理であった。どうやら制作側は、彫刻=裸だと思い込んでいたらしく、ヌードについても何の知識もないようであった。
そこで、日本には屋外に女性ヌード彫刻が多くてそれが芸術だと思われているが、そんな国は他にないと説明して、その話題を採り上げてもらった。撮影スタッフは、都内の外国人観光客にインタビューし、街角にある女性ヌード彫刻についてどう思うか聞いて回った。予想通り大半の人の答えは、「ありえない」「変だ」というものであった。番組では使われなかったが、「まあいいのでは」という意見もちらほらあり、それはイタリアやフランスの人だったそうだ。たしかにイタリアやフランスには、半裸の女性の擬人像やニンフがいる噴水などがあり、さらに芸術全般に寛容だということもあろう。ところが英米などプロテスタント圏の国では、屋外でヌードを見ることはほとんどなく、外に置かれたヌード像に違和感を抱くのは当然である。欧米では、ヌードは芸術であっても、美術館などしかるべき場所に限って見られるべきものなのだ。
日本は世界一のヌード大国である。街角や駅前にブロンズの女性ヌード彫刻があるだけでなく、週刊誌のグラビアには、以前よりだいぶ減ったとはいえアイドルやモデルのヌード写真が載り、女優のヌード写真集が出ると話題となる。
ヌードとは単なる裸ではなく、人に見せるために美化された裸体のことである。イギリスの美術史家ケネス・クラークは、名著『ザ・ヌード』(ちくま学芸文庫)において、ヌードは西洋美術で古代から脈々と受け継がれた芸術であるとして、裸体(ネイキッド)と峻別した。日本には長らくネイキッドはあったが、肉体を美的な対象とするヌードは存在しなかった。明治期に西洋からヌードという概念が流入し、美術のテーマとなったが、社会はそれを単なる裸と区別できず、政府もヌードの公的な展示を禁じた。
それが戦後になって解禁され、反動のようにヌードが氾濫してしまったのである。戦時中に供出された軍人像の台座に建てられることもあり、女性ヌードは平和の象徴として全国に普及していった。近年では、フェミニズム的な観点からそれらが女性蔑視だと問題視されるようになり、徐々に姿を消しつつある。私は屋外のヌード彫刻について批判してきたが、私がなじんできた神戸や阪神間のヌード像がいつのまにか消えてしまうのを見ると、一抹の寂しさを覚える。ヌードは、いつのまにか日本の風景にも日本人の心性にも同化していたのかもしれない。
日本人がいかにヌードを受け入れ、あるいは反発し、流行させるにいたったのか、またヌード以前に日本に存在した単なる裸体の表現はヌードとは別に、ときには融合して存続したのではないか。また、日本の刺青(入れ墨)は世界最高だとされ、外国から熱いまなざしを注がれてきた。幕末に大流行した刺青は明治初頭に多くの外国人によって日本を代表する芸術だと称賛され、さかんに記録された。しかし、現代では裏社会の象徴として否定的なイメージを与えられている。裸体が芸術となったヌードと、裸体の上に施された芸術である刺青とはどのような関係にあるのか。
そんな問題意識から、二〇〇八年に『刺青とヌードの美術史』という本を書いた。それから一六年たち、屋外のヌード彫刻は邪魔者扱いされるようになり、刺青はますます隠される傾向にある。そこで、今回この本を文庫化するに当たって増補改訂し、最近のヌードと刺青にまつわる話題も加えてアップデートをはかった。多くの人が身近なヌードにもっと気をとめ、考えるきっかけになれば幸いである。
(みやした・きくろう 美術史)