ちくま新書

ギャンブル趣味の極意
50代、60代のための地方競馬、競輪、競艇(ボートレース)、オートレース入門

最近、感動してますか? 血がたぎる興奮は? いい大人でも激情を味わっていい場所、酸いも甘いも知る大人だからこそさらなる学びがある場所、それが公営競技場。ハードなギャンブラーを目指すのではありません。人生を傷めない、超ソフトな趣味です。トップアスリートたちの素晴らしいレースに、たった100円から、私たちも参加できるのです。技術戦心理戦の展開を読みきり、運やツキの流れを引き寄せて勝負に挑むあなたは、まさに名作ギャンブル小説の主人公です、勝っても負けても、掛け金100円であっても……。『はじめて行く公営ギャンブル』では、中高年世代が新しい趣味をたしなむ極意を指南します。

†凝縮された「世界の仕組み」
 本書を手にしたみなさんは、公営ギャンブルをしたことがあるでしょうか。
 公営ギャンブル場と呼ばれる場所に行ったことがあるでしょうか。
 そこで馬券や車券、舟券と呼ばれる投票券を買ったことがあるでしょうか。
 公営ギャンブルではありませんが、JRA日本中央競馬会の馬券なら買ったことがある、という方はいるかもしれません。でも、あなたの家の近所にもあるかもしれない地方競馬場や競輪場には足を運んだことがない、という方も案外多いのでは。
 本書はまず、そのような、これまで公営ギャンブルと縁のなかった方たちのために書きました。できるだけ公営ギャンブルに興味を持ってほしいとの目的で、わかりやすく、優しい言葉を選んで書くことを心がけています。
 本書を手にして、この最初の部分を読んでいるということは、あなたはすでに公営ギャンブルに興味を持っているのかもしれません。最後まで読んで、楽しそうだな、自分に向いているかもしれないな、と思ったら、ぜひ一度、現地へ足を運んでください。
 ただし、ギャンブルで一獲千金を狙い、確実にお金を儲けたいと考えている人に、本書はまったく役に立ちません。それは私自身が公営ギャンブルで儲かった経験がほとんどないからです。
 本書は、ギャンブル必勝法の本ではありません。
 公営ギャンブルは、まず絶対に儲からないギャンブルです。本書をバクチの必勝法だと思った方は、ここでページを閉じたほうが賢明です。
 私は三〇年ほど公営ギャンブルを続けてきましたが、その日の収支が黒字になったことはほとんどありません。あったとしても累積する膨大な赤字に一回や二回の黒字分など跡形もなく吸収されてしまいます。残りの人生で赤字を黒字に変えることは間違いなく無理です。
 では、なぜ私は公営ギャンブルをするのか。または、なぜ勝てない公営ギャンブルの本を書こうと思ったのか。
 それは負け続けても楽しい方法を発見してしまったからです。
 負け続けて楽しい? そんなのどこが楽しいの? と読者の皆さんは思うでしょう。
 解答は、公営ギャンブルを通して「この世界の仕組みが分かりかける」から、楽しいのではないかと思います。
「この世界の仕組み」というのは、人間関係、人間のいる世界の法則です。公営ギャンブルは機械が乱数表からから特定の番号を選び出すギャンブルではありません。機械がサイコロを転がすギャンブルでもありません。勝ち負けには必ず人間が関与しています。
 だから勝負の背後に人間の優しさや弱さ、義理人情、やるせない煩悩や苦悩が見えてくるのです。勝ち負けの背景に何かしらの人間的理由が見えてきます。
 たとえていえば、それはある種の文学作品を読んだり、すぐれた映画を見ているような感覚です。公営ギャンブルは、わずか数分で終わるひとつのレースの中に、友情があり、打算があり、裏切りがあり、失敗があり、歓喜があり絶望があり、個人の力ではどうにもならない幸運不運があり、自分という人間に対する全能感や、喪失感を味わうことができます。公営ギャンブルは、ギャンブルでありながら、文学や映画でもあるのです。
 寺山修司はエッセイ「賭博(二)」(『自叙伝らしくなく 誰か故郷を想はざる』所収、一九六八年、芳賀書店刊のち角川文庫など)にこんなふうに書いています。「初めて賭博をしたときの私は「勝ちたい」とは思わなかった。勝ちたいのではなくて「知りたい」と思ったのである。私自身の恒星の軌道を、運の祝福の有無を、そして自分自身の最も早い未来を「知りたい」。勝負を決めるのは、いわば見えない力の裁きのようなものであって、それは、どう動かすこともできないだろう。だからこそ、「知りたい」のであり、賭けてみなければならないと思ったのである」
 寺山がいうように、ギャンブルには世界の仕組みと未来が凝縮しているように私も感じます。
 その境地に辿り着いた時、公営ギャンブルは人生そのものであり、たとえ負けてもその対価に充分見合う収穫があったと思えるようになるのです。
 と、偉そうに書いたところで、しょせん負け犬の遠吠えかもしれませんが、でも、人生の残り時間が少なくなった熟年世代の方々は、そんな境地をめざしてみるのも、明日の頑張りのための小さな目標になるのではないでしょうか。
 この境地には本当に人生の酸いも甘いも嚙み分けた大人でなければ達しません。だからこそ本書は大人のために書かれた公営ギャンブル入門なのです。

†もうひとつの解
 さて、ここで突然ですが、クイズです。
「一+一」の答えは?
 ほとんどの人は、苦笑しながら「二」と答えると思います。そしてその解答は間違っていません。しかし、違う答えもありえるということをご存知でしょうか。そんな馬鹿な、と笑うかもしれませんが、今ここでそれをご覧にいれましょう。
 スマホのアプリでも良いので、電卓をご用意ください。そして「一+一=」と打ち込んで、故障していないことを確認してください。「二」と出れば正常です。
 では、一という数字を三で割り(表1①)、つぎに三を掛ければ一に戻ります(表1②)。当然ですよね。つまり「一」という数は表1②に分解できるということです。
 よって一+一=二は表1③のようにも分解することができます。ところが、これを電卓で計算するとどうなるか(表1④)。あなたの電卓は「二」と表示しましたか?

表1
① 1÷3=1/3  ② 1÷3×3=1
③ 1+1=(1÷3×3)+(1÷3×3)
④  1÷3×3M+(メモリプラス) 1÷3×3M+ MRC(メモリイコール)

 理論的には「二」ですが、一般的な電卓ではそうはならない。そこには「一・九九九九九九…………八」という数字が表れているはずです(電卓のディスプレイの桁数によって「…………」の部分に表示される九の数が変わります)。
 数学的な証明やデジタル計算機の端数処理といった難しいことを抜きにして結果だけを見たならば、そこには一・九九九九九九…………八という、厳然と「二」ではない数字が表示されています。
 おわかりでしょうか。一+一の答えは「二」だけではないのです。この事実は小学一年生でも分かる算数の原則中の原則にも、実は、オルタナティブな解答、もうひとつの別の選択肢が存在していることを教えます。

†「ツキの流れ」理論
 長い前振りになりましたが、私が公営ギャンブルに魅せられるのは、こうしたオルタナティブが常に現れる点にあります。もうひとつの別の解答を常に探し求めなければならないのが公営ギャンブルの奥深い魅力であり、厄介な魔性であり、そして人生をこじらせた熟年世代の人間に向いていると、私が考える理由でもあります。
 一+一のもうひとつの解、「一・九九九九九九…………八」を「屁理屈だ」と失笑したり、腹を立てる読者もいるでしょう。たしかにこのクイズの答えは「屁理屈」です。しかし世の中には「屁理屈」で解釈しなければ納得できない事象も多くあります。
 熱愛の末に結婚した妻が今では口もきいてくれない。なぜだ。
 高い入学金や授業料を負担して大学を卒業させた息子が就職せず引きこもっている。なぜだ。
 大事なデータを保存した時に限ってパソコンが故障する。パソコンに続いてスマホもプリンターもエアコンも冷蔵庫も次々と故障した。なぜだ。
 新しいスーツを着た日に路上で転んで破いてしまった。なぜ……。
 そんな時には、誰でも落ち込んで、向かう相手もいないのに腹が立ったりします。
 俺の何が悪かったのか?
 これはただの悪運なのか?
 ツキがないということなのか?
 そのとおりです。運が悪い。ツキがないのです。ですが、「運」「ツキ」という言葉が頭に浮かんだ段階で、あなたはギャンブラーの資格があります。
「ツキ」という言葉は、私は究極の「屁理屈」だと思っています。しかし、「屁理屈」にもほんのわずかな真実が宿っています。「一+一=二ではない」という解答のように。
 一〇〇%間違いないと思った事象の結果が違った。
 データの分析をして絶対と思った予想があっけなく外れた。
 その理由もまるで分からない。
 そんな出来事は、人生において一度や二度ではなく、あなたにもあるでしょう。
 公営ギャンブルには、そのように思える事例が何度も、繰り返し起こります。
 公営ギャンブル場に行くと、一日の開催で一〇回から一二回のレースが行われます。そのレースの多くで、自分の考える「当然の解答」とはまるで違う、「オルタナティブな結果」が現れるのです。
 それはつきつめていくと「運」や「ツキ」の支配によると結論するしかありません。だから「運」や「ツキ」について深く考えるには、公営ギャンブルは格好の場なのです。
 日本でギャンブルにおける「運」「ツキ」を重要な要因に位置づけたのは阿佐田哲也だと思われます。私は高校生の時に角川文庫に収録された阿佐田の代表作『麻雀放浪記』を読んで人格形成に決定的な影響を受けました。
 巷間よく言われるように『麻雀放浪記』は『宮本武蔵』や『ああ無情(レ・ミゼラブル)』のような教養小説・成長小説とは真逆のベクトルを持つ「イカサマに騙されるほうが悪い」を主題とした悪徳小説(ピカレスク・ロマン)の傑作です。
 その序盤で阿佐田は技術の巧拙の要素が小さいサイコロ博打・チンチロリン(三個のサイコロを丼に落して出目を競う庶民ギャンブル)に「サイの目の流れ」「ツキの流れ」「運の限度」など熟練の経験者にしか語れない理屈で、勝敗予想を見事に理論化しました。
 ギャンブルの勝ち負けには「ツキ」「運」という実体のないエネルギーが作用しており、それらのいま現在の「流れ」を自分で測定しながら賭けねば勝てないとするのが阿佐田の「ツキの流れ」理論です。
 彼の小説に、こんな形で出てきます。「私は、サイの目の流れとその次に現れる結果を周到に観察していた。たとえば、胴が五ビン(強い目五を出しながら小方に負ける)の場合、運が落ち目で次回には弱い目が多い」「健は又、私に向かってこういった俺にゃァ自分の運の限度ってものがわかってる。(略)だから限度まで運を使って勝ったら、その晩はさっとやめちまうんだ。商売だからな」「なるほどね ―― と私はいった」(『麻雀放浪記⑴青春編』)


†ギャンブラーの思考
 また阿佐田哲也はルーレットを題材にした短編「ラスヴェガス朝景」にも、こんなふうに書いています。
「(ルーレットにおいてディーラーと客の間で)戦う内容は具体的には心理のかけひきなンだが、にもかかわらず、当たるのは運なンだ。そう思わなくちゃいけないンだ。それは説明がむずかしいな」
 麻雀のみならずあらゆるギャンブルに精通した阿佐田の言葉には、真理に近い重みと説得力が感じられます。しかしちょっと距離をおいてこれらの言葉を眺めると、それは長年の経験から導き出された「屁理屈」ではないかと思えます。なぜなら、どこまで追求しても「運」と「ツキ」の「流れ」には科学的合理性も実体もないからです。
 私は三〇代の頃から約三〇年間、公営ギャンブルをやってきましたが、いつか自分にも向いてくると考え続けた「ツキの流れ」はついにやってきませんでした。それを今になって思い知っているわけですが、でも後悔はしていません。なぜなら、公営ギャンブルの「学びの場」がとても楽しかったからです。
 ギャンブルは魔物です。
 ギャンブルによって最悪の場合、社会的立場ばかりか命まで失ってしまう人もいます。
 本命決着で崩れなしと予想した鉄板レースに、自分の生活や会社の命運がかかる持ち金のすべてを投入し、結果が外れてしまうケースです。
 幸い私の直接知る人でそのような非運に見舞われた人はいませんが、本命鉄板と皆がいうレースで、本命が上位入線しなかったレースは山のように知っていますし、一レースで一ヶ月分の生活費を失った人も知っています。
 同じぐらいの金額を違法な麻雀テレビゲームですってしまった人も知っています。
 ギャンブル好きが高じて生活費を失い、奥さんに離婚を告げられた人も知っています。
 その程度の不運なら日常的に起きるのがギャンブルです。ギャンブラーと呼ばれる人は、その不運を熟知した上で賭けを楽しみ、「運」や「ツキ」を味方にしているのです。

†“魔物”に対峙するための屁理屈力
 しかし、本書は読者のみなさんにそうしたハードなギャンブラーになれと勧めるものではけっしてありません。
 むしろギャンブルのジャンルの中にも超ソフト・超スローな、これぐらいなら損をしても負けてもあまり人生にとって痛くない競技があると書こうと思っています。
 そのジャンルこそが「公営ギャンブル」なのです。ソフトでスローなギャンブルでも、そこには先ほど書いたような「理屈」だけでは解釈できない、魔物のような不幸現象はよく起こります。
 一+一=二という「理屈」を、一+一≠二という「屁理屈」が超える瞬間があるのです。とくに公営ギャンブル場では頻繁に起こります。
 それを目の当たりした時の「なぜだ⁉」という気持ちを静めるために、人は「屁理屈」を作り出します。そして「屁理屈」こそ、この世界を支配するもっとも強力なルールだと考えるようになっていきます。 むしろ「屁理屈」に慣れ親しみ「屁理屈力」を身につけることが、人生を強くしく生き抜くための知恵なのです。そして「屁理屈力」を得るもっとも有効な「学びの場」こそ、公営ギャンブル場だと私は考えます。
 かつて織田信長の時代には「人間五〇年」と言われていました。人の寿命が五〇歳程度だった時代があったのです。今では「人生一〇〇年時代」といわれるようになりました。寿命が延びることはとても良いことです。しかし人間、五〇歳、六〇歳を超えるとなにかにつけ自分の弱さや世界の不条理を感じるようになります。
 だからこそ私は五〇代、六〇代から公営ギャンブルに入門してはどうかと考えました。
 公営ギャンブルにおける「屁理屈」とは何か。それはこの本を通してたっぷりとお伝えできると思います。
 人生に疲れを感じ始めている人、すでに疲れている人、新しい趣味を始めてみたいと感じている中高年は、騙されたと思って本書を読んでみてください。
 新しい世界が、そこに広がるかもしれません。
 

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