ちくま新書

加速する宇宙開発競争。その最先端とは
宇宙イノベーションの時代を読みとく

たとえばスマートフォンの便利なGPS機能。中国の衛星測位システム「北斗」も全世界をカバーしており、じつはiPhoneをはじめ2022年に出荷されたスマホのうち98.5%は「北斗」のシステムにも対応しています。その産業規模はおよそ10兆円。いまや宇宙技術は、国策から民間へ、国威発揚からビジネスへ、そして平和利用から軍民一体へとシフトしました。すでに実験が始まっている「量子衛星通信」など、技術競争は未来の科学力に直結します。加速する宇宙開発の最先端を取材したちくま新書『宇宙の地政学』の冒頭を公開します。

 1957年の「スプートニク・ショック」以来、世界の宇宙開発は旧ソビエト連邦(現ロシア)と米国が牽引し、欧州、日本、中国などが続いた。ロケットから衛星まで一貫して自前で設計、開発、製造するには高度な科学技術の体系、莫大な資金、それに多数の有能な人材が必要であり、これらを満たす国は限られていた。
 21世紀に入ると中国が独力で有人宇宙飛行に成功、著しい躍進を遂げて米国の宇宙覇権を脅かすほどとなった。同時に米国では「ニュースペース」と呼ばれる民間宇宙ベンチャー企業が台頭し、「宇宙の地政学」は「米ソ」から「米中」へ、「国策」から「民間」へ、「国威発揚」から「ビジネス」へ、そして「平和利用」から「軍民一体」へと大きくシフトしたのである。
 米中の宇宙開発競争は月のポジション獲得をめぐって顕在化した。21世紀初となる有人月面探査を目指して、米中双方が巨大ロケットや宇宙船の開発でしのぎを削る。米国の「アルテミス」計画と中国の「嫦娥」プロジェクトは、いずれも月への有人飛行だけでなく、恒久的な月面基地の建設を目指す。また2023年にはインドが「チャンドラヤーン3号」の月面着陸に成功したほか、ロシアが「ルナ25号」、そして日本が「SLIM」を打ち上げた。月への関心は高まるばかりである。
 火星探査でも技術の粋を尽くしたチャレンジが続く。2021年に火星に到達した米国の火星探査機「パーシビアランス」と中国の「天問」は現在も火星で探査を続ける。火星には大気が存在し、「人類が移住できる可能性がある」といわれる。米国は火星で初めてヘリコプター「インジェニュイティ」を飛ばしたほか、火星の大気で酸素を創り出すことに成功した。次のミッションは火星からのサンプルリターンである。米国の宇宙ベンチャー「スペースX」は2018年、超大型ロケット「ファルコンヘビー」でテスラ初のEV「ロードスター」を火星に向けて打ち上げた。「スペースX」は独自に「火星移住計画」を進めるという。
 米中の競争は宇宙のあらゆる分野に及ぶ。国際宇宙ステーション「ISS」と中国の「天宮」、測位航行衛星「GPS」と「北斗」、衛星通信コンステレーション「スターリンク」と「国網」など、先行する米国を中国が猛追する構図となっている。「量子衛星通信」ではむしろ中国が先頭を走っている。宇宙開発の動向は私たちの社会インフラにも直結しているのである。
「ニュースペース」と呼ばれる宇宙ベンチャー企業の活躍は目覚ましい。超小型から超大型に至る新型ロケット開発、精密測位や高速通信を実現する高度な衛星群、さらには宇宙旅行、宇宙ホテル、宇宙エンターテインメント、宇宙資源開発、宇宙コロニーまで、ユニークなアイデアで宇宙ビジネスの実現を目指す。現代は「宇宙イノベーションの時代」といっても過言ではない。
 宇宙はまた「戦闘領域」でもある。あらゆる技術は「軍民両用(デュアルユース)」であり、宇宙も例外ではない。偵察衛星、早期警戒衛星、宇宙通信、衛星攻撃兵器(ASAT)など、宇宙兵器はサイバー兵器や電磁波攻撃とともに、戦争の帰趨を決する上で決定的な役割を果たすことになる。
 戦後、ゼロからのスタートとなった日本は、ロケットや衛星を自前で開発できる数少ない国の一つとなった。全長わずか23センチの「ペンシルロケット」から全長63メートルの「H3」ロケット開発に至るには、様々な苦難を乗り越えなければならなかった。独力で有人宇宙飛行が実現できる時こそ、「科学技術立国日本」が復活する日なのである。
 後世の科学史家が今日を振り返った時、21世紀初頭は「パラダイムシフトの時代だった」と映ることだろう。2023年のノーベル生理学・医学賞は米ペンシルバニア大学のカタリン・カリコとドリュー・ワイスマンに贈られた。授賞理由となったのは短期間で新型コロナワクチンの製造にこぎつけたメッセンジャーRNA(mRNA)技術の開発である。mRNAは遺伝子であり、かつて遺伝子操作は「神の領域に手を染めること」とされていた。現在はウイルスどころか、生物の最小単位である細胞を人工的に合成することさえできるようになった。
 脳に小さなICチップを埋め込んで、運動機能の回復や睡眠・記憶のコントロールに使う研究も実践段階に入ろうとしている。ブレイン・マシーン・インターフェイス(BMI)やブレイン・コンピュータ・インターフェイス(BCI)と呼ばれる技術である。睡眠中に見る夢をテレビモニターに可視化する技術はすでに確立している。
 量子科学の世界では量子コンピュータや量子通信などが実用段階に入りつつある。絶対に破られない通信やどれほど難解な問題もたちどころに解いてしまうコンピュータがやがて出現するだろう。戦争の形態も間違いなく変わる。AIを組み込んだドローンやロボットだけではない。銃で撃たれても痛みを感じない人間の研究などが現実に行われている。
 人間社会に最も大きな影響を与えるのが生成AIである。2022年11月、米国のベンチャー、オープンAIがリリースしたChatGPT(チャットGPT)はたちまち世界を席巻した。人類が今日まで発展を遂げたのは「二足歩行」「火の利用」そして「言語」だと言われているが、その言語をAIが紡ぎだす時代となったのである。
 宇宙開発は国力を測るバロメータの一つである。宇宙開発には持てる技術力をすべて投入しなければならない。その意味で「宇宙を制する者」は間違いなく「未来を手にする」ことになる。日本でもユニークなアイデアや技術を手にした宇宙ベンチャーが芽を吹き始めた。ロケットや新型エンジンの開発、超小型衛星の新しい展開、リモートセンシング、宇宙デブリ除去、人工流れ星など、小粒でも世界に類例をみない宇宙ベンチャー企業が出現しており、いずれ全地球規模で大輪の花を咲かせる日が来るだろう。
 果たして宇宙を制する者は誰なのか、日々刻々と進化する宇宙開発の現状を見つめながら、宇宙レースの近未来を読者とともに読み解いていくことにする。

目次より
プロローグ 宇宙を制する者が「未来」を手にする
第 一 章 月をめぐる熾烈な争奪戦
第 二 章  米中が火花を散らす宇宙の激戦区
第 三 章  国家の威信をかけた中国の宇宙開発
第 四 章 躍動する米国の宇宙ベンチャー「ニュースペース」
第 五 章 日本の宇宙開発と宇宙安全保障
エピローグ 日本が「未来」を手にするために

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