ちくま新書

都市国家アッシュルの誕生と、それをはぐくんだ国際商業ネットワーク
『アッシリア 人類最古の帝国』第1章より

古代国家アッシリアはいかにして最古の帝国となりえたのか。その全貌に迫る待望の通史『アッシリア 人類最古の帝国』(山田重郎著)より、アッシリアの中核にしてその象徴的都市であったアッシュルの台頭を扱った「第1章 都市国家アッシュル――古アッシリア時代」の冒頭部分を公開します。

†都市アッシュル
 前二千年紀半ばに成立する領域国家アッシリアの中心地域となったのは、今日のイラクの北部、ティグリス川中流域であり、イラク北部の主要都市モスル北方の山地を北限に、南部は小ザブ川がティグリス川に流れ込む地点から少し南にある山岳地(ジェベル・マクルとジェベル・ハムリン)のあたりまでの平地である。領域国家アッシリアにおいて前二千年紀以来の主要都市はアッシュル、ニネヴェ、アルベラであり、この三都市が作る三角形の最南部に位置するのが、国家の起源となった都市アッシュルである。降水量がきわめて少なく平坦な沖積平野が続くイラク南部と異なり、アッシリアの中心地域は起伏があり、天水農耕を可能にする年間300ミリ以上の降雨に恵まれた地域である。アッシュルよりも北方に位置し、より降雨の多いアルベラ近郊では現在も小麦栽培が盛んであり、イラク有数の穀倉地帯となっている。
 都市アッシュル(現カルアト・シェルカト)は、ティグリス川の西岸で小ザブ川がティグリス川に注ぐ合流点の北方に位置していた。アッシュルは、ティグリス川の古代流路が大きく湾曲する部分に西南から突き刺さるような形で位置しており、その先端部分は川面に覆い被さるように数十メートルの高さで屹立する絶壁になっている。この際立った景観をもつ場所が、神アッシュルの住まうところとして神格化され、それを礼拝する人々が集まってこの聖地に神アッシュルの名を冠した都市を築いたのではないか、と考えられてきた。あるいは、アッシュルという地名が先にあり、その地の神がアッシュルと呼ばれたのかもしれない。いずれにせよ都市アッシュルは神アッシュルそのものであり、神アッシュルの聖所はこの場所そのものであった。
 楔形文字文書から知られている古アッシリア時代(前二千年紀初頭)のアッシュル市民の名前には、アッシュル・ドゥリ(「アッシュル神は私の砦だ」の意)、ドゥル・マキ・アッシュル(「弱き者の砦はアッシュル神」)、アッシュル・ネメディ(「アッシュル神は私の礎」)、アッシュル・シャディ・イリ(「アッシュルは神の山」)などが見られ、外敵からの防御に役立ったこの土地にアッシュルの人々が寄せた気持ちが伝わってくる。
 19世紀末からドイツ隊によって行われた調査発掘の結果、アッシュルには紀元前2600年頃から紀元後14世紀まで、ほぼ4000年にわたり途切れることなく、何らかのかたちで人が住み続けたことがわかっている。奈良や京都の歴史を奈良・平安時代までさかのぼったとしてもせいぜい1200~1300年であることを考えれば、アッシュルはかなり長寿の町ということができる。
 都市アッシュルは、紀元前三千年紀後半の楔形文字文書に言及されており、前23~21世紀にはアッカド王朝やウル第三王朝といった、メソポタミア南部に中心をもつ強大な国々の影響下に置かれていた。アッシュルからは、アッカド王朝やウル第三王朝の行政官の銘が刻まれた石製の飾り板や武器が出土しており、これを裏付けている。その後、ウル第三王朝の衰退・滅亡を受けて、前2025年頃には、アッシュルは少数の有力な商人たちが主導する都市国家として独立し、前21世紀末から前18世紀前半には、商業都市として繁栄する(図1–1)。

図1 - 1  アッシュルの都市プラン

†キュルテペ文書
 ドイツ隊により開始されたアッシュルの発掘調査は10年ほど続いたが、その後長期の調査は行われなかった。2000年にはティグリス川下流のダム建設の計画により水没の危機が叫ばれたが、建設は中止され、2003年以降、遺跡はユネスコ世界遺産に登録されて保護されている。2023年からはドイツ隊が本格的な発掘の再開を目指して活動しており、新しい成果が期待される。
 これまでのアッシュルでの発掘は、アッシュル神殿や王宮をはじめ古アッシリア時代の建築物の存在を明らかにしてきたものの、古アッシリア時代の遺物の調査は進んでおらず、粘土板文書も神殿から出土したわずかな文書が知られているに過ぎない。そんななか、古アッシリア時代のアッシリアの人々の活動に関する大量のデータが、意外なところからもたらされた。
 19世紀末、トルコ、中央アナトリアのカッパドキア地方で出土したと伝えられる3000枚以上の粘土板文書が欧米各地の博物館に持ち込まれた。1920年代以降になってこれら一群の文書が研究され、その内容が明らかになっていった。カッパドキア文書と呼ばれたこれらの文書は、メソポタミア南部で話されていたアッカド語バビロニア方言とは異なる「古アッシリア方言」と呼ばれるアッカド語方言で書かれており、文字の形も文字遣いも個性的だった。やがてそれは、紀元前二千年紀初頭に当時アッシュル市から遠く西方に直線距離で800キロも離れた中央アナトリアの都市カネシュに移り住んで交易に従事していたアッシリア商人たちとその家族によって書かれた文書であることがわかった。1924年、アッシリア学の碩学B・ランズベルガーは、現在のカイセリ市の北東21キロの地点に位置するキュルテペ(「灰の丘」の意)遺跡を古代のカネシュと同定した(図1–2)。

図1 - 2  キュルテペ遺跡空撮。円形のテルの左に見えるのがカールム

 1925年には、ヒッタイト語の解読で知られるチェコのB・フロズニーがキュルテペを発掘調査し、そこがカッパドキア文書の出所であることを突き止めた。1948年からは、トルコ、アンカラ大学のT・オズギュッチによってさらに発掘が進められ、今もトルコ隊による発掘は続いており、毎年新たな文書が発見されている。この半世紀の間にキュルテペから発見された粘土板文書は2万枚を優に超えている(図1–3)。

図1 - 3  キュルテペ出土の古アッシリア文書

†カールム・カネシュ
 通常、粘土板を含めて考古遺物は古代の建築物が折り重なって小高くなった遺丘(トルコ語でテぺ、アラビア語でテル)から発見されることが多い。だが、キュルテペ文書は遺丘の北東に位置する、畑になっていた平地に埋もれていた。文書が出土したのは、丘の上にあったカネシュのアナトリア系領主の宮殿が位置する「上の町」の外に造られた「下の町」の商人居留地で、アッシリア商人の商館が立ち並んでおり、アッカド語でカールムと呼ばれていたことがわかってきた。カールムとは、「港、河岸、商業センター」を意味する。
「下の町」からは四つの居住層が検出されたが、粘土板文書が発見されたのは、第Ⅱ層(前1945―1835年頃)と第Ib層(前1832―1700年頃)である。その多く(2万点以上)は第Ⅱ層から発見され、しばしば数十点ずつまとまってカゴや壺などに封印され粘土製のラベルが付けられたうえで、家の倉庫の棚に保管されていた。また、少数ながら、後のヒッタイト王国の首都ハットゥシャ(現ボアズキョイ)やその南東のアリシャル・フユックなどからも古アッシリア時代の粘土板文書が発見されている。
 こうした事実や文書の内容からアッシリア人はカネシュだけでなく近隣各地にも居住していたことが知られる。カネシュはアナトリア地方最大のアッシリア人居留地で、本国であるアッシュル市の出先機関である自治組織として機能し、アナトリアからシリア北部にかけて分布していたアッシリアの複数のカールムを束ねる存在だった。
 カネシュとアッシュルの間は直線距離では800キロほどだが、実際に歩く距離に換算すると1000キロから1200キロもあった。その間、水場の少ないステップを通り、冬は雪で閉ざされるような険しい山岳地も通過しなければならない。商人たちは一日20キロから25キロの行程で、途上に位置するアッシリア人のコロニーを伝うように進んでいった。「ロバが旅路で死んだ」「寒さで隊商が苦しんだ」という証言も手紙に見られる。商人が旅の途中で誘拐されたり、商品が盗まれたりする危険もあった。しかし、それだけの苦労があってもやり遂げるに値するもうけがその遠隔地交易にはあった。

†アッシュル商人の活動
 キュルテペ出土文書は、アッシュルの商人たちが担った国際交易の実際について生々しい記録を豊富に残している。アッシュルからは錫と織物がカネシュに運ばれ、その代わりにアナトリアから金や銀が持ち帰られた。
 アナトリアでは銅と錫の合金である青銅の生産が盛んであり、青銅製の武器や道具の鋳型が多く発見されている。錫はエラムの商人によって東方のアフガニスタン方面からアッシュルに運び込まれたと考えられる(図1–4)。

図1 - 4  古アッシリア時代の国際交易の物流

 織物はおもに毛織物で、アッシュルにおいて生産されるほか、南方のバビロニアからも輸入され「アッカド」織物とよばれて、アナトリアに輸送された。アッシュルでの織物生産は商家で家内工業として、おもに女性たちが働き手となって行われた。アッシュルの婦人たちは、アナトリアに渡って商業を営む夫については行かず、通常は母市であるアッシュル市に留まって商取引の一翼を担っていた。女たちを集めて織物を生産し、バビロニア産織物や錫と一緒にアナトリアへ送り出すとともに、世帯主として家財を管理したのである。あるいは商家の主である家長が妻とともにアッシュルに残り、息子がアナトリアに赴任することもあった。
 バビロニアやアッシリアの織物は、アナトリアで珍重され奢侈品としてもてはやされた。カネシュのアッシリア商人は、事前に顧客の希望や、市場でどのような商品が求められているかを調べ、詳細な注文をアッシュルに対して出した。カネシュのプズル・アッシュルという商人からアッシュルの婦人ワカルトゥムに宛てられた書簡には次のような文言が残っている。

プズル・アッシュルは述べる。以下のようにワカルトゥムに言え。1マナの銀 ―― その関税分追加済み、手数料支払い済み ―― をアッシュル・イーディーが、私の捺印付きで持っていく。お前が私に送ってよこした上等の織物だが、同じように織物をつくってアッシュル・イーディーに持たせて私に送ってくれ。そうしたら私は(一点につき)2分の1マナを送る。布地の片面はすくこと。ただし完全に刈り込まないように。織り方は密にして薄手にすること。以前送ってくれた織物に較べて、一点につき1マナずつ余分に羊毛を使え。しかし薄手にすること。反対の面は軽くすいて、もしそれでも毛が残るようならクタヌ布のように鋏で刈ること……(TC3/1, 17; Veenhof 1972: 104)

 運送屋に当たる商人がタウルス山脈とその近郊で採掘されカネシュで買い付けられた銀や金を預かり、ロバの隊商を組んでカネシュからアッシュルに運ぶと、今度はアッシュルで細かい注文に応じて生産された織物や買い付けられた錫を受け取ってカネシュに折り返した。カネシュ出土の文書には、カネシュの商店主が運送屋に銀や金を託し、運送屋はそれをアッシュルに運び、そこで買い付けた商品を持ってカネシュに戻るように定めた「輸送契約書」、この文書とともに運送屋に託されてアッシュルの代理人のもとに運ばれた、買い付けるべき商品を示した「買い付け覚書」、そして届けられた銀で実際に何を購入して運送屋に託したかをアッシュルの代理人が記し、カネシュの商店主に渡すべく運送屋に託された「決算書」などにあたる粘土板文書が大量に知られている。
 これらの文書は、粘土の封筒に入れられて、文書を作成して送り出した者の円筒印章が押された(図1–5)。商品は布でつつまれて、円筒印章で捺印された封泥をつけて厳重に封印され、運送屋に預けられた。運ばれて目的地に着いた荷は、すぐに重さがはかられて、決算書と照合された。

図1 - 5  封筒に入った粘土板

 毎年およそ100キロの金・銀がアッシュル市に運ばれ、商人たちはそれを元手にアッシュルで調達した錫と織物をアナトリアで売りさばいて大きな利益を得た。アッシュルから運ばれた錫は買い付けた価格の2倍で、織物は3倍の値段で売ることができたことがわかっている。

関連書籍