ちくま新書

町内会はいま必要なのか
『町内会―コミュニティからみる日本近代』

加入率低下や担い手の高齢化により、各地で町内会が存続の危機に瀕しています。回覧板、清掃、祭り、防災活動など、その活動は多岐にわたります。そもそも参加は任意であるはずなのに全戸加入が原則とされてきた、この奇妙な住民組織は、いつどのようにして生まれたのでしょうか。町内会・自治会というありふれたコミュニティの歴史を繙くことで、日本社会の成り立ちを問いなおす、玉野和志さんの新刊『町内会』より、「はじめに」を公開します。

 町会、町内会、部落会、自治会……、時代により、地域により、さまざまによばれているが、そのような住民組織が、日本の地域にはだいたい存在している。世代により、生まれ育った地域により、そのような組織を身近に感じる人もいれば、縁遠い人もいるだろう。昔はハエや蚊の消毒に協力していたとか、用水の掃除や道普請をやっていたとか、果ては町内会対抗の運動会まであったというと、びっくりする人も多いだろう。現在では、たまに回覧板が回ってきたり、会費の請求や歳末助け合いの寄付のお願いがあったり、何年かに一回当番をしなければならないといったところであろうか。
 ある意味では何の変哲もないものであるし、深く関わる人も多くはない。しかしながら町内会・自治会は、戦後何度か大きな議論の的になり、現在でもその存続が課題とされている。
 読者の中にも、新しく引っ越してきて、入れと言われたが、これはいったい何なんだろうとか、係の仕事が回ってきたが、どうしたものかとか、果てはたまたま町会長になってしまって、いろいろ考えると改革の余地があると思うが、どうしたものかと考えあぐねている人もいるかもしれない。さらには、こうすればいいだろうと思ってやってみたら、思わぬところから横やりが入り、にっちもさっちもいかなくなったという人もあるかもしれない。
 阪神・淡路大震災以来、大きな災害があるたびに、きずなや共助が強調される。確かに町内会のような組織は、あるに越したことはないだろう。でも、もう少しどうにかならないかと思っている人も多いだろう。町内会は身近な地域で人々がゆるやかに日頃からつながりを維持して、ちょっとしたことやいざというときに助け合うことを可能にする、日本の社会に古くから培われてきた共助の仕組みといえなくはない。そのような仕組みがどのように成立し、これまでどのように維持され、現在どのような課題を抱えているかを知ることは、そのような困難に思わず巻き込まれたり、日頃から疑問を感じている人にも興味のあることだろう。
 本書は、そのような人が町内会とは何なのかということを知り、地域における共助のあり方を見直すうえで、少しでも助けになればと思って執筆したものである。
 ところが、この町内会のよってきたるところをたどっていくと、意外なことに、日本の社会や国家の特質が見えてくる。何を大げさなと思うかもしれないが、権力はつねにそのような日常生活の場で作動しているのだというのが、この半世紀あまりの人文社会科学が明らかにしてきたことである。それはヘーゲルやマルクスを基盤に、ニーチェをへて、ルフェーヴルやフーコーに引き継がれた視点である。バトラーなどのフェミニズムの視点も同様であろう。
 町内会という誰も気にとめないようなものから、日本の国家=行政がどのように社会を統治してきたのか(「統治性」)、また、それを支えた人々がどのような社会的存在であったのか(「階級性」)を考えてみたい。そこから、われわれが今日「きずな」とか「共助」とか言っているものに、どのような歴史的事情や、地域ないし民族による違いがあるのかを明らかにしていきたい。
 第一章では、町内会の現状と課題を紹介する。まずは、現在、町内会・自治会をめぐってどのような議論や課題が取り上げられているかをみてみたい。
 そのうえで、第二章では、そもそも町内会とはどのようなものであり、いつ頃から成立したものであるかについて詳述する。そこで本書全体を通して大きなテーマとなる、町内会をめぐる「統治性」と「階級性」という概念が提起される。
 つづく第三章と第四章では、この統治性と階級性について、それぞれ詳しい検討がなされる。第三章では、明治地方自治制の成立過程を詳しく検討することで、日本の近代国家による住民統治の技術がどのように確立するかをみていきたい。第四章では、明治地方自治制に代わる町内会体制の形成過程における、担い手層の階級的位置づけについて考察する。ここで、容易には理解されないだろうが、町内会の担い手は、ヨーロッパでは労働組合へと組織された労働者階級の中核部分であったと主張したい。
 最後の第五章では、以上のような歴史的検討をふまえて、これからの町内会や市民団体が、どのように日本の地域社会を支えていけばよいかを展望してみたいと思う。