ちくま学芸文庫

哲学ブームとやらの本当の意義
〔じつは〕哲学者の直球勝負

 

文庫版へのあとがき

 この文庫版は、かつて出た単行本と内容的には何も変わっていない。翻訳もほとんど直すところはなかったし、解説もことさら直してはいない。本書の意義などについては、そちらを参照していただければ幸いだ。
 さて本書『ウンコな議論』(On Bullshit)が予想外のベストセラーになったフランクファートだが、ある意味でこれは一発屋的なブームではあった。柳の下のドジョウ狙いで『On なんとか』といった本や、一般にあまりお上品とは思われていない用語についてまじめくさって考察した薄い本はいくつか出たけれど、それが大きな流れとなったわけではない。もちろんこの一冊で何かすごい哲学ブームがくるとはだれも思っていなかったので、これは想定内ではある。フランクファートという哲学者がそれなりに哲学分野以外での知名度を上げたというのが最大の影響だったというのがフェアな評価だろう。
 さてそのフランクファートについて、本書が出て以降の動向を少し述べておこう。本書の直後二〇〇六年に、かれは『真実について』(On Truth)という本を書いた。これは、本書『ウンコな議論』の続編とも言うべきものとなる。
 本書の基本的な主張は、もちろんウンコな議論はよくないものだ、ということだ。ウンコな議論は、嘘ですらない。嘘は、何らかの誤情報を伝えようとする。真実を知りながら、それをゆがめるということで、真実というものをある程度は認知し、重視している。でもウンコな議論は、誤情報ですらない。ノイズでしかなく、その場しのぎの思いつきでしかない。いやもっとひどい。それは真実に対する認知と敬意すら持たないという点で、嘘よりも悪い。それは真実を薄めて軽視する、とても悪い存在だ。
 この議論はもちろん、真実はよいものであり、真実に敬意を払うことは重要だ、というのが前提となる。もちろん、嘘はよくないものだ。そしてフランクファートとしてはそれが当然の前提であり、したがって真実がとてもよい、重要なものだという主張をわざわざ本書で説明しようとはしなかった。
 ところがこれに対して、真実なんか存在しない、すべてはその人の見方次第であり、そのときのなにやら「パラダイム」次第で真実は変わるんだ、という一派がいる。この立場からすれば、真実が大事だからウンコな議論はよくない、というフランクファートの議論は、それこそ屁のような主張であり、それ自体がウンコな議論でしかないことになる。そしてまさに、本書に対してそういう批判が一部では展開されたのだそうだ。
 こうしたポストモダンと自称する連中(フランクファート自身がそういう言い方をしている)の主張を受けて、フランクファートは改めて、真実というのが大事なものなのだし、それに敬意を払うべきだ、ということを論じた。それが『真実について』だ。
 ほとんどの人にとって、真実が重要だというのは当然のことだ。だからこそ、たまにひねくれたポモな人々が真実なんかないと述べたりすると、うろたえたりうまく反論できなかったり、あるいはそれを一笑に付すだけの強さを持てなかったりするし、そこに見栄や物欲しげな願望や陰謀論が加わると、変な真実否定論やら相対主義やら、「事実と真実はちがう」とかいう妄言やらが幅をきかせてしまう。フランクファートは『真実について』で、卵は落とせば割れるとか、橋に重すぎるものが乗ったら壊れるとかいう事実はあるし、確かに程度問題とか価値判断に依存する部分もあるけれど、だからといって全然事実とちがうことが真実だったりすることはあり得ない、というとても基本的な話をする。そしてそこから、哲学的にも真実は重要で、嘘はよくないのだ、というていねいな議論を展開する。それは人が、自分自身のアイデンティティを確立するにあたっても、自分の身の回りについて何が事実/真実で何がそうでないかという認識が基本となるからだ。そしてそれをいい加減にすることで得られるものはない!
 フランクファートが『真実について』でちょっと侮蔑的に語る「ポストモダニスト」連中がこの説明で納得するとは思えない。でもたぶん、それ以外の人々にとっては、きわめて納得のいく真実擁護の議論だろう。
 そしてさらに、二〇一五年には『不平等論』(On Inequality)というやはり短い本が発表された。これはもちろんピケティ『21世紀の資本』やそれを取り巻く各種の格差議論を受けたもので、格差解消は大事かもしれないけれど、でも平等性それ自体には道徳的な価値はない、と主張した、ちょっと変わった本となる。この本は、この文庫とほぼ同時に邦訳が拙訳で刊行される予定なので、興味ある方はごらんいただければ幸いだ〔二〇一六年九月刊〕。そこでも議論の核にあるのは、人が自分自身について自分なりにきちんと考えること――自分として何を求め、何が必要かを考えること――こそが重要であり、まわりがどうだからとか、だれかと比べて格差があるからとかいう基準を設けるのはよくない、ということだ。さてこの議論に説得力を感じるだろうか?
 こうしたフランクファートの本の内容についての賛否はもちろん、人それぞれだ。でもこれらが示しているのは、やっぱり哲学というものが力を持ち得る文脈というのが何か、ということなんじゃないかとは思う。哲学は役に立たない机上の空論の最たるものと一般には思われている。そしてそれを気にしてか、いっしょうけんめい哲学をなにやら時事的な問題とからめて見せようとする苦しい努力もあちこちで見られる。原発事故と哲学とか、IoTと哲学とかね。そうした努力は決して無意味ではない一方で、往々にしてその時事問題についての勉強不足が露呈して裏目に出る場合も多いように思う。
 でも本書のヒットは、真実ってなぜ重要なんですかとか、嘘はなぜいけないんですかとか、そういう基本的な部分でのストレートな哲学的考察にもそれなりの需要があることを示したんじゃないかとは思う。別にぼくは、哲学者の提灯持ちをする義理はないのだけれど、たまに人々はそうした当たり前に思えることを改めて考えることが必要だ。そのニーズに哲学者が直球勝負で応えることも重要なんじゃないだろうか。本書や、『不平等論』でそうした哲学の役割についても、みなさんが(暇なときに)ちょっと思いをはせていただければと思う。
二〇一六年八月 東京/深圳にて
山形浩生 hiyori13@ alum.mit.edu

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