中尾健次氏の業績は膨大だが、大きく前後に分けるとすれば、ほぼ二〇世紀と二一世紀の間に画期があるように思われる。
前期の仕事の中心は、『弾左衛門関係史料集』全三巻(解放出版社、一九九五年)をひとつの頂点とする、弾左衛門研究である。この史料集は、江戸の長吏頭であった浅草弾左衛門に関する膨大な史料を集成した文字通りの労作であり、その後の研究に大きな恩恵を与えている。
弾左衛門については、中尾氏は史料集刊行に先立って、『江戸社会と弾左衛門』(解放出版社、一九九二年)、『弾左衛門 大江戸もう一つの社会』(解放出版社、一九九四年)などの著書を矢継ぎ早に発表している。
これらの一連の著作をもって、「弾左衛門支配の研究に魅せられて」十年以上続けた研究に一区切りをつけるつもりだったようだ。史料集刊行後に論集などの成果をふまえて平易に書かれた『江戸の弾左衛門』(三一新書、一九九六年)には「私自身、弾左衛門支配に関する研究は、この三部作をもって終わるつもりでした」と書いている。この『江戸の弾左衛門』刊行の後、姉妹編として執筆されたのが本書であった。
この頃の中尾氏が、近世の身分制社会をどのようにとらえていたかについて、よくわかるのが『江戸の弾左衛門』の「あとがき」である。氏は、封建社会を「属地主義」であると、とらえ、「属地主義」の封建社会にあって弾左衛門支配が幕府・藩の領地を越え「属人主義」で支配をするのが「賤民制」であると見ている。そして、「非人」は、「封建社会からはじき出された人びと」であるという。
とすれば、江戸シリーズとして『江戸の弾左衛門』で弾左衛門が支配する「もう一つの社会」について論じた中尾氏は、姉妹編の本書で社会から「はじき出された人びと」に光をあてることで、江戸の全体像を描き出そうとしたということもできよう。
中尾氏の一連の仕事を振り返ったとき、この江戸の大道芸を扱った書物は前期の掉
尾を飾る作品と位置づけることができるかもしれない。
本書では、江戸という舞台で大道芸を行っていた「非人」「乞胸」「願人」、そして「猿飼」の姿を実に生き生きと描き出している。複雑な支配のあり方や組織についてわかりやすく解説されるだけでなく、興味深いエピソードがちりばめられて、読んでいて飽きることはない。このあたりは、聞き手を引き付ける講演の巧みさでも知られた著者の技が発揮されているのだろう。
「はじめに」で著者は、「社会の動きを反映して絶えず流入・流出をくりかえし」ている都市の下層に置かれていた人びとを「芸能を通して民衆文化を底辺から支えてい」たと位置づけている。
中尾氏がいう「都市下層民」と芸能については、序章に明確に記されている。生活手段を喪失して江戸に流入した「貧人」(「都市下層民」)が、「非人」「乞胸」「願人」などに頭のもとに編成され、生きる糧として芸能を行うという。『江戸の弾左衛門』では、「窮民」たちが「体一つと簡単な道具」でできる「貧しい窮民の生活を支える最後の砦」として大道芸を位置づけている(一一五頁)。
こうして、いくつかの芸人集団が生まれていく。江戸という都市の形成と連動するようにして、近世に編成されていく「非人」「乞胸」「願人」などを、「きわめて“江戸時代的”な存在です」と本書で述べている。そして「都市下層民」が、生活の手段として「非人」集団に加わるか、乞胸・願人の集団に加わるかで彼らの身分が決まっていく。身分について、「一見“固定的なもの”としてとらえられがちですが、実際には、このようにきわめて“流動的な”側面もありました」(『江戸の弾左衛門』一五二頁)という視点に立って本書は書かれているのである。
様ざまな集団に所属する芸能者による生きるための芸が、歌舞伎という大衆芸能に集約され、歌舞伎がまた大道芸に影響を与えていく。本書で著者が歌舞伎をもうひとつの主人公として叙述を進めているのはそのためである。
芸能を近世における「都市下層民」の生きる「最後の砦」という視点で貫かれた本書では、鑑札の制度や「ぐれ宿」など、経済的に困難な状態にある人びとが生活を維持するための工夫とともに、その内部に存在していた搾取の構造なども浮かび上がらせている。
その一方で、中世から存在が確認でき、武家との接点をもっていた「猿飼」については、その位置付けに苦労され「かなり異質」ととらえられている。本書では「補章」として本論に入れられていないところにも、そのあたりの苦心がうかがえる。
猿飼という芸能は、芸の難しさから参入が容易ではない。そのため、「流動性が乏し」く、人数も少ないと中尾氏はいう。「民衆との接点は、それほど多くなかったといわざるをえません」として、「別格」ととらえられているのである。
しかし、『守貞謾稿』という江戸時代の随筆には「江戸は猿引はなはだ多く、毎日十数人来り乞ふことあり」とあるから、決して少なかったわけでもなさそうだ。この点は、やや不思議だったのだが、長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫)を見ていて疑問が氷解した。
〈テンコツさんの住居は、中島座の通りで、露路にはいった突当りだった。露路口に総後架の扉のような粗末な木戸があった。入口に三間間口位な猿小屋があった。大猿小猿が幾段かにつながれていて、おかみさんが忙しなく食ものの世話をしていた。人参やお芋を見物のやる棒のついた板の上に運んでいた。私ははじめ猿芝居かと思っていたがそうではなく、といって、見物に小銭で食物をやらせるのばかりが商売でなく、猿を買出しにくる人もあったかも知れないが、貸猿がおもなのだから、猿廻しの問屋とでもいったらよいかもしれない。〉
どうやら、にわか猿飼のための猿のレンタルがあったようなのだ。あらかじめ仕込みが終わった猿を借りれば、芸の巧拙はともかく初心者でもそれなりには稼げただろう。つまり、猿飼もまた、中尾氏がいうような「都市下層民」の生活手段たりえたことになる。
本書の主人公となった「生きるギリギリのところで生計を立ててい」た人びとについて、中尾氏は『江戸の弾左衛門』「あとがき」で「封建社会のなかで資本制生産を準備し」ていた「労働予備軍」ととらえていた。「封建社会からはじき出された人びとを、封建制のワク内で管理し」ているのが「非人」組織であるという。
このような「都市下層民」のとらえ方は、例えば吉田伸之氏が「所有」に着目して「近世的異端」と述べた議論にも通じる視点であるといえる。吉田氏らは後に近世の身分制研究で一世を風靡する身分的周縁論を牽引することになる。身分的周縁論でも集団間の関係に注目し、「重層と複合」などといった見方が提起されたが、「非人」や「願人」「乞胸」は、中尾氏がいうような「“江戸時代的”な存在」なのか、それとも「異端」なのか。この点は、近世身分制全体の再検討を含めて今後の課題なのかもしれない。
冒頭、中尾健次氏のお仕事を二つに分ければ二一世紀を後期とすることができると述べた。それまで相次いで単著を刊行してきた中尾氏は、本書の刊行後は単著を刊行することからしばらく離れている。本書の「あとがき」には「スランプ」という思いがけない言葉が書かれているが、もちろん、その後も論文や概説、共著などはとどまることはなかった。
ただ、中尾健次氏も中心メンバーの一人として史料の収集や編纂作業に関わっていた『大阪の部落史』の仕事が一九九五年から始まり、次第に本格化していった。この作業のなかで、中尾氏はそれまでの江戸弾左衛門研究に一区切りをつけ、大阪の部落史研究に没頭し始めた。
もともと、中尾氏の生活の場は関西にあり、大阪を中心とした被差別部落の史料調査や通史の執筆などは早い段階から行っていた。教員から大阪教育大学へ移られたこともあり、学校現場で人権学習などで教材として活かすことができる関西の部落と皮革や食肉に関する問題などをわかりやすく伝えることにも非常に熱心であった。
編纂委員の尽力によって、数多くの新史料によった全一〇巻からなる『大阪の部落史』の本文、史料編が二〇〇〇年から一〇年間にわたって刊行が続けられた。編纂過程で発見された史料をもとに『史料集浪速部落の歴史』『悲田院長吏文書』といった大部な、大阪の部落史研究の基礎となるべき史料集も編纂されていく。中尾氏は、常にその中心メンバーのなかにいた。
弾左衛門支配とは様相を異にする大阪の被差別部落に関する史料も数多く発掘された。『悲田院長吏文書』は本書でも取り上げられた「非人」と密接に関わる大阪の史料群であるし、大阪にも「願人」や「猿飼」がいたことはわかっている。
中尾氏は、こうした大阪の史料をもとにした集大成といえる研究成果を出すことを構想されていたのではないだろうか。ご本人から、そうした話をお聞きしたことがあるわけではないが、少なくとも私は漠然とそんな期待を抱いていた。もし、そうしたものが出されれば、江戸の弾左衛門研究をふまえた、中尾氏にしか書けない「大坂」の民衆像が提示されたことだろう。
残念ながら、中尾氏の急逝によって、それが実現する機会は失われてしまった。本書を再読して、その損失の大きさを思わずにはいられない。
(むらかみ・のりお 奈良大学准教授)