「承認」と「コミュニケーション」。最近、この二つの問題について考えることが多くなった。
つきつめて考えるなら、「ひきこもり」にしても「ニート」にしても、あるいは、いわゆる「新型うつ」から就活の悩みの相談に至るまで、どこにでもこの問題がみてとれる。今思い返せば、若い世代の就労動機が、もはや「生活の糧」を稼ぐことなどよりも、はるかに「承認」寄りになっていることに気づいたことが重要なきっかけだった。そう、彼らは食べるために働くのではない。他者から承認されるため、いまある承認を失わないために働くのだ。
果たして、この認識は本当に正しいのか。大学は言うまでもなく、講演会やシンポジウムなどで若者と話す機会はしばしばあるが、私がどれほど「若者の承認依存」や「コミュ力偏重」について挑発的に語っても、彼らはうなずくばかりでほとんど反論してこない。ツイッター上でも同様で、同意されることはあっても否定されたことはない。どうやら私の認識は“とんでもない見当違い”というわけでもなさそうだ。
他者の許しがなければ、自分を愛することすら難しい。承認依存とは、つまるところそういうことだ。それは困ったことかもしれないが、だからといって、その風潮をただ批判してもはじまらない。彼らがコミュニケーションと承認に依存していく過程には、強い必然性がある。つまり“そうなるより仕方なかった”という構造的必然である。私が懸念するようなリスクを上回るベネフィットがあるからこそ、この風潮は盤石なのだ。
ならば、どう考えるべきなのか。
こうした構造的必然に抵抗するさい、私が取り得る抵抗のための戦略は、常に「分析」である。「ひきこもり」しかり「母と娘」問題しかり、「ヤンキー」しかり。人々の無意識は常に“目の前”にある。あまりに自明すぎて、常に視野から逸れていってしまうもの、それこそが、私の考える無意識だ。
そうした無意識のありようを見極め、可能な限り精密に記述し、その依って来たるところを分析し解釈すること。さらに可能であれば、その時点での対案なり対策なりを示すこと。そうすることが、すぐに役立つとは思わない。しかし、問題の所在に気づき、その“解決後”を想像してみることは、確実に解決可能性を高めてくれるだろう。
もちろん本書が扱う話題は「承認」のみに限定されない。うつ病から家庭内暴力、解離からキャラと、かなり多種多様な話題が取り扱われている。中には皮膚科専門誌からの依頼原稿といった変わり種もある。しかし、一見無関係にみえて、そのどれ一つとして「承認」につながらない問題はない。そのような意味で「承認」は、本書の通奏低音である。本書のタイトル『承認をめぐる病』にはそうした含意がある。
私が求めるものは「承認」よりも「関係」であり、「コミュニケーション」よりも「ダイアローグ(対話)」である。さしあたりそれらは、構造的必然を超えるための理想でしかないが、この現在を“病み抜ける”ための道標として念頭に置きつつお読みいただければ幸いである。
12月刊行のちくま文庫『承認をめぐる病』から「はじめに」を公開します。現代の、特に若い人をとりまく厳しい状況の背景にある「承認」問題をあぶりだします。