徳川慶喜は、人生の半分以上が余生である。
天保八年(一八三七)に生まれ、幕末の動乱を生き、明治をとおりこして大正二年(一九一三)に世を去ったということは七十七年の長い生涯にめぐまれたわけだが、政治の表舞台から消えたのは三十二歳のとき。いわゆる鳥羽伏見の戦いで薩長を主とする新政府軍に敗北し、謹慎生活に入ったのである。
その後は、ふたたび起つことがなかった。よそ目にはあの、
──静かに余生をおくる。
という紋切型の表現がぴったりの日々にも見えるけれど、実際はどうだったか。本書はその長い余生のありさまを、さまざまな史料を駆使して叙述したものである。子孫による思い出ばなしとは一線を劃しているが、ときに大胆な推測もまじって読みやすい。ここには政治家としての慶喜はいないが、それ以外のすべての慶喜がくっきりと像をむすんでいる。
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徳川慶喜の四十五年にわたる後半生は、東京政府との関係から見ると、前後二期にわけられる。
前期は、疎遠期である。慶喜はひたすら距離を置いた。その態度がもっとも鮮明なのは明治天皇に対するときで、慶喜は、そのころ住んでいた静岡に天皇が来ても「所労」を理由に挨拶へ出なかった。
──それほど謹慎の意志が強かったのだ。
とか、
──それほど新政権に遺恨があったのだ。
などとするのが従来の説明だったけれども、本書によれば、どちらもちがう。それはむしろ勝海舟、山岡鉄舟、大久保一翁といったような旧幕臣系の新政府要人の監視によるところが大きかったという。慶喜は挨拶へ出なかったのではなく、出ることができなかったのだ。
海舟たちとしても、立場上、やむを得ないところがあったのか。実際、彼らが亡くなる前後から、慶喜は後期の親近期をむかえるのである。明治も三十年代に入ると(つまり後半生も三十年におよぶと)天皇との拝謁が実現したばかりか、公爵という第一等の爵位をもらい、四十以上も年下の若き皇太子と仲よしになった。
ことに皇太子との友情はふかく、しばしば銃猟へいっしょに行ったりして、
「ケイキさん」
「殿下」
と呼びあったという。皇太子はもちろん、のちの大正天皇である。彼にとって慶喜は、即位前の貴重な老友だったわけだ。
もっとも、こうした政府ないし皇室との接触は、慶喜の生活の半面にすぎないだろう。もう半面は、いわばひとり遊びだった。若いころは毎日のように銃猟に出かけたり、投網をしたりしたが、ほかにも謡いや能、小鼓、油絵、囲碁、将棋、ビリヤード、刺繍(!)などにいそしんだ。
ことに写真は本格的で、本職の写真師の指導を受けつつ近村遠地の風景はもちろん、家族や女中をも被写体にした。それに飽きると生け花まで撮ったというからよほど好きだったのか。最晩年には自動車まで入手して乗りまわしたというから恐れ入る。
──うらやましい。
と、実際のところ、読者の誰もが思うのではないか。私も思う。慶喜は近代の風流人なのだ。
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個人的な話で恐縮だが、私は、門井慶喜という。
ペンネームではなく本名である。歴史ずきだった父が名づけたらしく、子供のころ、私はこの名前が大きらいだった。
理由はいろいろあるのだが、基本的には、徳川慶喜を他人とは思えなかったのだろう。しかも世間のこの人物への評価は両極端で、みずから大政奉還を決断した史上まれにみる、
──名君。
という人もいれば、鳥羽伏見の戦いで味方をすてて逃げ出した前代未聞の、
──臆病者。
という人もいる。おさない私はまるで自分が両極端の評価にさらされている気がして、わけがわからなかったのだ。どうせ過去の人に名前をもらうなら、龍馬とか、漱石とか、そんな誰もが褒めるものにしてほしかった。
いまは父に感謝している。あのころさんざん悩まされたおかげで私は歴史という一生の主題をあたえられ、思考の背骨をあたえられたように思うからだ。気がつけば私はあの不毛な「自分さがし」の必要がなかった。のみならず、これは結果論だが、私はそれを職業にもしてしまったのである。歴史小説を書いているのだ。
そうして歴史小説というのは案外、世間の需要があるらしい。ときにはこうして文庫解説というかたちで良書をひろめる幸福にもめぐまれたりして、これでなかなか多忙である。趣味についやす時間があまりないのだ。
徳川慶喜がその後半生において銃猟、投網、謡いや能、小鼓、油絵、囲碁、将棋、ビリヤード、刺繍などにいそしんだのとは正反対の情況なわけだが、これは私だけではなく、たいていの現代人はおなじなのではないか。まいにち決まった時間に通学したり、通勤したり、残業したり、あるいは専業主婦ならば、たまった家事をかたづけたり。職業がそのまま人生の中心になっているのだ。
逆にいえば。
徳川慶喜には、人生の中心がなかった。
あるいは一生の主題がなかった。そう言うことも可能なのではないか。近代の風流人などと呼ぶと聞こえはいいが、本人の胸はどうだったろう。そこにあるのは沙漠の風、荒涼たるニヒリズムの風景だったかもしれないのだ。
少なくとも、ラジオもテレビもインターネットもない時代に四十五年も「暇をつぶす」というのは生半可な生活ではないだろう。静かなる自分との戦い。彼は酒に溺れたり、芸者あそびに狂ったりしなかった。ということは、もしかしたら、その前半生よりもむしろ後半生において遙かに主体的な努力をおこなっていたのかもしれない。ほんとうに「うらやましい」などと言える生活かどうか、私たちはもういちど考えてみなければならないのだ。
最晩年、徳川慶喜は、昔夢会の事業に夢中になったという。昔夢会とは財界の指導者・渋沢栄一が主宰した、慶喜の伝記編纂のための会である。
そこではプロの歴史学者をふくむ編纂員たちが、あるいは慶喜から直接聞き取り、あるいは史料を参照して素稿をつくった。それを見せられた慶喜はていねいに目を通したばかりか、書きこみ入りの付箋を貼ったり、編纂員を呼んであらためて語り聞かせたりと、それは熱心にとりくんだ。
仕事はかくべつ速かったという。私はこのくだりを読み、ひどく心あたたまるものを感じた。同名のよしみのせいではないと思う。徳川慶喜はここでようやく職業を得たのだ、趣味にわかれを告げることができたのだ、そんな気がしたからである。徳川慶喜はこの事業に約六年たずさわったのち、世を去った。
未定稿ものこしたが、完成した『徳川慶喜公伝』はこんにち第一等の史料とされ、もちろん本書の参考文献にもふくまれている。余生は「生」になったのだ、と言ったら感傷的にすぎるだろうか。
1月刊のちくま文庫、家近良樹著『その後の慶喜』から、門井慶喜さんによる解説「徳川慶喜、趣味に生きる覚悟」を公開します。大政奉還を成しとげた名君か、家臣を見捨てた臆病者か。今に至るまでその評価が両極端な人物と同じ名前を授かった人気作家は、明治の徳川慶喜の生き方をどう捉えたのか。