本を読んでいる人の姿が好きなために、電車やホームで読書中の人がいるとつい見とれてしまいます。本のタイトルが気になって、靴紐を直すふりをして表紙を覗き込むこともあります。ときどき目が合って相手がぎょっとしたりしますが、そうした表情の変化を見るのもなかなかにスリリングです。もっとも、予想していたのと違う本だったりすると(たとえば中年のサラリーマン風の男性がフェルナンド・ペソアの『ポルトガルの海』を読んでいたりすると)にわかに興味を抱き、その人が降りた駅で降りたくなってしまうから厄介です。
考えてみれば中学や高校のときも、図書館で本を読んでいるようなタイプに惹かれました。読書は、徹底的に個人的な行為であり、ひどく排他的な行為です。本好きは孤独を好み、どこか頑ななところがあるように思われがちですが、頭の中に広がる世界は賑やかで、果てがありません。エミリー・ディキンソンの言うとおり、空が入ってしまうくらい頭の中は(想像力は)広いのです。
読書する女性の姿は多くの画家を魅了してきました。柔らかな女性の美しさが際立つフラゴナールやルノワールの絵は有名ですが、ゴッホやピカソの描く絵は骨太でおかしみが漂っています。ずいぶん昔にメトロポリタン美術館で観たエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの絵は印象的でした。黒い帽子を被り、白いドレスを身につけた女性がソファに座って本を開いている肖像画ですが、女性の視線は本ではなく、観ている側、つまり画家のほうに注がれています。肖像画にとって本はちょっとしたアクセントに過ぎず、残念なことに、女性も読書家には見えませんでした。
読書する男性を描いた作品はすぐには思いつきませんが、動物を描いたものなら素晴らしい絵を知っています。フジモトマサルさんの作品です。白クマや兎や猫が愛らしい姿で本を開いているのです。
フジモトさんが「読書の情景」をテーマとする絵を描き、その絵をもとに吉田篤弘さんが掌篇を書いた贅沢な作品がこの本です。二十四枚のカラーの絵と二十四作の掌篇が収められています。登場する動物たちはたいていひとりで、口を引き結び、本を(巻物のときもあります)読んでいます。そういえば、口を開けながら本を読んでいる人を見たことがありませんね。
どんな本をどこで読むかはだれにとっても大きな問題ですが、この本には、それはもう本当にいろいろな場所が登場します。夜行列車や日本庭園、橋の上、芝生の上、図書室、窓辺、プール、ドラム缶風呂など、シーソーや屋根の上もあります。そして不思議なことに、フジモトさんが描くその場所はとても自由な空気に満ちています。そうした絵だからこそ、吉田さんは自由な発想を得て物語を綴れたのでしょう。
山猫がタクシーの後部座席で本を読んでいる挿絵のある「話の行き先」では、「早いところ結末を知りたくて、つい最後の頁を先に読んでしまう」運転手が登場します。先を読むのは運転手の癖、職業病だからと運転手は説明し、行き先のわからないもの、つまり小説は苦手だと言うのです。でも、行き先がわかったら、「どんな道をたどってゆくか」が腕の見せどころで、新しい道を発見すると嬉しいとも言います。絵には描かれていない運転手の存在がにわかに浮かびあがり、車内の空気がいきなり濃密になっていくのです。
シーソーに乗っているライオンの絵と、「少年期というものが、いつ終わったのか知らない」という文章から始まる「寝耳に水」や、川辺で釣りをしているリスのいる「ひとり」もいいですし、暗い喫茶店で熊がシルエットとして描かれている「影の休日」は、とりわけ吉田さんの想像の翼がはばたく音が聞こえてくるようです。
本書は愛といたわりの物語です。たくさんの動物たちと清らかな言葉が、読書の愉しさを教えてくれます。
(ふるや・みどり 翻訳家)
あの、フジモトマサルさんの手になる、読書をする動物たちの絵に、吉田篤弘さんがひとつひとつ物語を紡ぎました。待望の文庫化に際して、PR誌ちくまに寄せられた書評を転載します。