ちくま新書

「一時保護所」とは、どういう場所なのか

一般にはなかなか知ることができない「一時保護所」の実態を、社会企業家である著者が訪問し、取材し、 さらに住み込んで明らかにした。そこまでして知ってほしかった問題とは何なのか? また、なぜ関心を 持ったのか? 序章で、その思いを語っています。

「お前は、私たちの息子ではない」

 いまから三〇年以上前の話です。隅田川の川岸に、生まれて間もない男の子がダンボールに入れられていました。たまたま通りかかった人に見つけられ、近くの病院に預けられて、その院長によってケンタ(仮名)という名前がつけられました。
彼は、物心がついたときには乳児院にいました。そして、児童養護施設に移されたあと、市川に住んでいたチバさんという夫婦と養子縁組をすることになりました。四歳の頃です。
 幼い頃の記憶はなく、自分はもちろんチバさん夫婦の子どもだと思って育ちました。養親(ようしん)がもう一人の養子をとった時に「明日から一人男の子を引き取るけど、お兄さんとして仲良くするように」と言われたことからも、彼は「自分はこの家の子どもだ」と信じていました。
 しかし、家で暴れたりすることもなく、問題も起こしていなかった、スポーツ好きなケンタさんの人生は、ある日を境にガラリと変わってしまいました。
小学四年生になった、ある平日のことでした。朝リビングにいくと、いつもは出社しているはずの「父」がいます。「お父さんは会社を休んだ。今日はみんなでおでかけをしよう」と言います。「ものすごくうれしかったのを、強烈に覚えています」と、彼は述懐します。
 しかし、車に乗って連れて行かれた先は、公園でも動物園でも遊園地でもありませんでした。周りに高い塀のある、五階建ての灰色の建物です。
車を停めた親は「ここで待っていたら、また迎えに来るよ」と彼に言ったそうです。よく意味がわからないまま、彼は初対面の大人たちに引き取られました。
 その大人たちは、児童相談所の職員でした。動揺している彼に、彼らはこう告げます。「もうチバさんはここには来ない。これからのことはもう少し経ってから考えよう。ここから逃げ出したら、少年院か教護院に連れていくからね」。
 「意味がわからなかったです。だから、その日のうちに脱走しました」とケンタさん。そして、小学四年生の身で、児童相談所のあった場所から市川までの五〇キロを二日がかりで歩き、自分の家に帰ったのです。
 玄関のベルを鳴らすと、驚いたチバ夫妻が出てきて彼を迎え入れました。そして、彼に対してこう言いました。「お前は、私たちの実の息子ではないんだ。今日だけは泊まっていっていいが、もうお前をうちで預かることはできない」。
「もう腹を決めるしかなかった」と彼は言います。そして、脱走した一時保護所に戻っていきました。市川の小学校のクラスメートや先生に何のあいさつもできないままで、今もそれが心残りになっているそうです。
 一時保護所は、児童相談所の中の施設で、非行少年、被虐待児、児童養護施設や里親家庭に入る前の子どもが「一時的」にいる場所です。虐待や貧困など、家庭内の事情でここにやってくる子どもは、今では七割を超えます。

毎日が体罰の場所だった

 「二〇年前の当時、そこの一時保護所はひどい場所でした。毎日が体罰です。たとえば、午前中ずっと体育館を雑巾がけさせられます。また、先生と話していたら、『目を見て話せ』と馬用のムチで叩かれたりします。
 私から見て、特に理由があって体罰があるようには思えませんでした。朝礼の時間に、『お前ら夜に話していただろう。うるさかったぞ』と言われ殴られたりします。夜の就寝時間に怒られ、朝まで立たされていたり、ご飯抜きになったりすることもありました。ほぼ毎日がそんな感じです」。
 そんな一時保護所で、ケンタさんは三カ月以上を過ごしました。その期間に、彼の行く先を決めるための児童福祉司との面談は、一五分もない短いものが二回だけだったそうです。
 一回目の面談は、「君は、施設に行くことになりそうだ。山にある施設がいいか、海が近くにある施設がいいか」という内容のものでした。彼は「海がいいです」と答えました。
 二週間後の面談では、「海のほうはいっぱいになったから、山にしよう」と告げられました。そして、ある日突然出発を告げられ、車と電車を乗り継ぎ、彼は山梨県の児童養護施設に連れていかれました。
 「自分の意志とは関係のないところですべてが進んでいくのが、本当に嫌でした。とにかく、彼らはほとんど何も状況説明をせず、直前になるまで何も話さなかった。
 市川の小学校から周りに何のあいさつもできずに児童相談所に連れて行かれ、新しい生活だと言って山梨に連れて行かれる。すべてのことが、ただただ寂しかった」。
 二〇年後、テレビで保護所内虐待が取り沙汰された一時保護所は、まさに彼がいた場所
でした。出自を明かさず、会社経営者として他のNPOの人らとともに、その保護所を訪れた彼に対し、一時保護所の職員たちは「テレビはデタラメ。ここではあそこで報道されたような事実はない」と話します。これに対して、彼はついに声をあげました。
 「私はここを出た人間です。だからこそ、いまここで何が起きているのかが想像できる。当時と同じことが起きているかは不明だが、ここで今も体罰があることは間違いないと私は確信しています」。
 この児童相談所には、実際に彼の記録が残っていました。予想外の出来事に面食らった職員たちは、あわてふためきました。なお、私(筆者)は多くの一時保護所を取材のために見せていただきましたが、この保護所だけは中を見せてもらえませんでした(とはいえ、後からこの保護所を訪問した方いわく、「二、三時間見ただけでは、何もわからなかった」とのことでした)。
 一時保護所に入っていた本人たちから聞いた証言を総合すると、一〇年前の都心の保護所では、殴ったり、ご飯を抜きにしたりするようなひどい仕打ちはすでに少なくなっていたようです。それでも、何らかの体罰が存在していたのは間違いない事実でした。
 都心の某一時保護所は本当にそういった暴力が横行する場所だったようです。だから、ここを経験した子どもたちが暮らす児童養護施設では、「これ以上暴れたら、また児相(児童相談所)に戻ることになるからな」というのは強烈な脅しの言葉で、これを言われた子どもは大抵おとなしくなっていったそうです。とんでもない話です。
 自身の職業人倫理に誓いますが、私はインタビューに答える人に誘導尋問をして、自分の望むストーリーを書こうとしているわけでは決してありません。そもそも一時保護所にいた当事者からの話の多くはインタビューというより、私が社会的養護出身者の方々からたまたま昔話を聞く際に出てきた話なので、誘導のしようもありません。
 後で詳しく見ていきますが、約一〇年前までは、一時保護所内にいる子どものうち非行・虞犯(ぐはん)少年の比率が今より高かったのも、暴力的な統制が行われていた一因だといいます。さらに、一部の一時保護所はもともと児童自立支援施設(非行・虞犯少年が暮らす施設)だったこともあり、そこでの厳しい規律を踏襲しているため、規律が異常に厳しくなっているようです。それも決して許されることではありませんが。
 この一時保護所を経験して、施設や里親家庭に行くことになった子どもの中で、「あそこに戻りたい」という子どもに出会ったことがありません。しかし、多くの地域を回ってみて知ったことは、児童相談所間の格差が激しいことです。たとえば、神奈川県の中央児童相談所を訪問したときには、子どもの権利擁護の観点から最大限の配慮がされており、感心したことがあります。

 一児の母であるエリコさん(仮名)は、日本でも特に人口が少ない地方(Z県)の一時保護所にいたことがあります。彼女に「やっぱり、規則でがんじがらめのとんでもない生活だったのでしょうか」と質問したところ、全く違う答えが返ってきました。
 「慎さんの話がちょっと信じられないくらい、ゆるいところがある場所でした。外に出たいと言ったら、『本当はダメなんだよー』と言いながらも外に出してくれました。決まりはあるんですが、子どもに寄り添いながら、多少はルーズに対応してくれたんです。所長さんは、休みの日にジュースと菓子パンを持ってきてくれたりしました。
 ここにいる間は、身の安全を脅かされる心配はない、という安心感がありました。かなり自由で穏やかな時間を過ごすことができました。私のいた一時保護所は食事もおいしかったんです。調理のおばさんはどちらかというとぶっきらぼうな人でしたが、頼んだら何でも作ってくれました」。

なぜ私にとって機会の平等が重要なのか

 一時保護された経験がある人たちから当時の状況を話してもらった時、まず私にやってきた感情は怒りでした。本人にはどうしようもない理由で不利益を被らないといけない人を見ると、いつも私にはこの感情が何よりも先にわいてしまうのです。
それは私自身のバックグラウンドとも無縁ではないと思いますので、少しお話ししましょう。
 私が通った学校には先輩と後輩の間に厳しい上下関係があり、生意気だった私はよく先輩に殴られました。中学生の頃は、先輩を差し置いてサッカー部の試合のレギュラーに選ばれたということで、翌日トイレで殴られたこともあります。高校には、先輩が後輩からお金を巻き上げる「伝統」があり、嫌な思いをしました。
 多くの人たちがその学校のルールに染まる中、「なぜこの人たちは一年、二年先に生まれただけでこんなことができるのか」というのが、私には最後まで理解できませんでした。だから反抗的になり、ますます殴られたものです。ですから、高校三年生になった時に同級生たちと一緒に学校改革をして、私たちの代でこの悪しき「カンパ」の伝統を無くしました。それは、私の起業家としての人生の始まりだったと言えるのかもしれません。
 その次に直面したのは、経済的な問題でした。私の家は決して裕福ではなかったので、子どもの頃は、羽振りがよい親戚の生活を見てうらやましいと思ったものです。高等教育は、親が集めてくれたお金と奨学金でなんとか受けることができました。その教育のおかげで、私はモルガン・スタンレーという外資系の金融機関に就職し、すぐに両親にお金を返すことができました。あるべき時にあるべきお金があることがいかに大切なことか、私は身をもって知りました。
 両親は朝鮮人ですが、私は日本で生まれ、日本で育ちました。生まれた時に私が親から受け継いだのは朝鮮籍といって、これは戦前に朝鮮半島からやってきた人々につけられた記号で、国籍ではありません。日本に愛着はあり、日本の子どもたちを支援する活動をしていますが、自分の生まれた境遇を否定するわけにはいかないと思っていますので、朝鮮籍のままです。ですから私はパスポートを持っておらず、それで年に五〇回ほど海外出張をします。
 私に「人は生まれながらに平等であり、みなが自分の境遇を否定することなく、自由に自分の人生を決められる機会が提供されるべきである」という信念を抱かせているのは、こうしたバックグラウンドによるものだと思います。
 私の本業は、銀行に相手にされない途上国の貧困層の人々のための信用組合の運営です。二〇一七年一月現在、三カ国に子会社をもち、約四万人以上の人々に金融サービスを提供しています。目指すは民間版の世界銀行で、すべての途上国で現地の人々に金融サービスを提供したいと思っています。
 それとともに、ライフワークとして、子どもを支援するNPO法人リビング・イン・ピースの活動を続けています。特に日本国内の子ども支援は、人生を賭けて取り組もうと思っているテーマです。
 私自身の人生を振り返って気づいたことは、自分の運命を自分の力で勝ち取るためには二つのことが必要だということです。
 第一は強い心です。様々な逆境に負けずになんとかするという強い意志、自分にはできるはずだという自分を信じる心が私には必要でした。そして、国内の子ども支援活動をしていて気づいたのは、そういう心は私自身の力ではなく、私を育ててくれた親のおかげで育まれたということです。すべての人が、自分の存在を受け入れてくれる大人の下で育つべきであるという信条はここから来ています。
 第二はお金です。意志があっても、手元にお金がないと絶望的な状況に陥ることもあります。そういう時に、誰かが融通してくれる数万円、数十万円がいかに大切なものであるか、私は身をもって知っています。だからこそ、私は途上国の人々や、国内の貧困家庭の子どもたちに対して、金融サービスへのアクセスを提供したいと思っています。
 私の人生は、「なんで自分だけ」と思うことの連続でした。何かと多くの不自由がある中で、私はずっと試行錯誤を続けてきました。ですので、生まれ落ちた境遇に関係なく、誰もが自分の運命を勝ち取ることができる世の中をつくりたいのです。

なぜ一時保護所に関心を持ち始めたのか

 私が仲間たちと作った認定NPO法人であるリビング・イン・ピースは、社会的養護下の子どもの支援を行っています。私は施設に住み込みをしたこともありますし、個人的な活動として、施設を退所したり卒業したりした子どもたちとずっと関わりを持ち続けています。
 それは、頼る人がいなくなった苦しい時にこそ、声をかけられる存在が大切であると信じているからです。もちろん、限られた時間の中で面倒をみることができる人数は多くないのですが、それでも子どもたちとできるだけ時間をかけて一緒にごはんを食べたり、寝る所がなくなった青年を泊めてあげたりしています。
 私が長く関わる子どもたちの多くは都内の一時保護所を経験しているのですが、みなが口を揃えて言うのが「一時保護所と児童相談所が、一番イヤな場所だった」ということでした。彼・彼女らは、次のように言います。

 「あそこは地獄だ。思い出したくもない。男女間の規律が異常に厳しくて、お姉さんとの会話も許されなかった」。
 「何をするにしても制限が決まっているのが本当に嫌だった。扉が二枚重ねで、すべてに鍵がかかっていた。大人がいる場所と子どもたちの生活空間の間には扉が二つあり、刑務所のようだった。悪いこともしていないのに、なんで自分はこんな刑務所のような場所にいるんだろうと思った」。
 「児相の人が来て『二、三日だけでも来ない?』と言われ、二、三日ならと思って『はい』と言ったら、連れていかれて、結果として四カ月。がんじがらめのひどい場所で、自分としては騙されたと思っている」。

 そういう話を聞くまで、私は児童相談所や一時保護所についてほとんど知ることがありませんでした。行政組織である児童相談所が多忙を極めていることは知っていましたが、一時保護所での子どもへの処遇についてはほとんど聞いたことがなかったのです。
 私が一時保護所とその運営主体である児童相談所について関心を持ったのは、社会的養護出身者たちとの長い関わりを通じて聞いた話がきっかけでした。

なぜ関係者全員にインタビューできたのか

 社会的養護出身者、児童養護施設の職員、里親にインタビューをするのは、それほど大変なことではありませんでした。しかし、それだけでは十分ではありません。行政側の関係者と実親の話も聞かないと、物事の実情は明らかになりません。また、一時保護所の訪問と住み込みも欠かせないと思いました。
 特に行政組織である児童相談所の中でも、管理が一層厳しいエリアである一時保護所を見て回るのは、容易なことではありません。普通に正面玄関からお願いに行ったら、まず拒絶されたことでしょう。
 この取材の困難さが、児童相談所についての本の多くが安易な「児相たたき」に終止している理由なのだと思います。というのも、児童相談所に取材を断られた人の取材対象は「子どもを児相に取られた」と主張する実親や、子どものみとなることが多いためです。そうすると、どうしても内容が偏ってしまいます。
 私は、そういう本を書きたくありませんでした。児童相談所で働いている人や子どもを保護された親にどうしてもインタビューをしたかったときに助けられたのが、「G1サミット」の存在でした。政治・経済・文化・公共セクターの第一人者らが集まるこの会議には、多くの首長が参加しており、私も彼らの合宿に参加し、子ども支援のあり方について協議していたのです。その首長のみなさんに協力をお願いし、各地の児童相談所を訪問するとともに、実親にも話が聞けるようになりました。そして、一時保護所への住み込みも叶えてもらいました。
 安易な「児相たたき」本でもなく、児童相談所の元職員が自らの視点で書いた本でもなく、できるだけ多くの関係者の意見を踏まえながら、状況を構造的に描き出そうと努めました。
 私がリビング・イン・ピースの活動をしていなかったら、このような規模と拡がり、深さのある調査活動はできなかったことと思います。その意味で、本書はとても貴重な資料となっているはずです

社会的養護の全体像と本書の構成

 社会的養護において、児童相談所が関わっている業務の全体像は次の通りとなります。
まず、子どもたちは、親の貧困・虐待・疾病等の理由で、実家庭で暮らすことが最善でないと児童相談所によって判断された子どもたちは、親元を離れることとなります。その後、子どもたちの多くは児童相談所に併設されている一時保護所に平均して一カ月滞在することとなります。その後、家庭に戻ることはできないと判断された子どもは、里親・児童養護施設等(社会的養護)に措置されるか、特別養子縁組を受け、実親を離れ生活をしていくことになります。
 それぞれのステップに存在している課題と、その課題解決の方向性についてもまとめてみました(図1)。これらについては、本書の中でそれぞれ触れていくことになります。
 次に、本書の構成を説明します。
 本書ではまず、一時保護所とはそもそもどういう場所であるか説明します。実際の生活についてお話をした後に、子どもたちがどんな環境で暮らしているのかデータとともに示していきたいと思います。また、本書執筆の動機であった、一時保護所内虐待が存在するのかどうか、するとしたらそれはなぜ起きるのかについても、突き詰めて書いていきたいと思います。職員を悪者にすることなく、なぜそういったことが起きるのかという構造的な要因を分析するのが目的です。
 その次には、一時保護所の運営主体である児童相談所について見ていきたいと思います。「激務の中で、全く子どもの対応ができていない」とダメ出しをされることの多い児童相談所ですが、子どもや親の話だけでなく、実際に献身的に働いている職員の人たちの話も聞きながら、何が問題なのか立体的に描きたいと考えています。
その後、児童相談所と社会的養護のあるべき姿について書きたいと思います。これは私だけの主張ということではなく、現場で働いている人々が思っていることとして書いています。

 

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