筑摩選書

壮大で貴重な社会的実験

1月発売の筑摩選書『ソ連という実験 国家が管理する民主主義は可能か』から「まえがき」をお送りします。 ソ連の失敗からわれわれは何を学べるのか? なお、本編では、ソ連の涙ぐましいまでの努力が詳細に描かれます!

 一九五三年三月のスターリンの死、そして「スターリン批判」のおこなわれた一九五六年二月のソ連共産党第二〇回大会を経て、ソ連のあり方は大きく変化していった。この変化を経験していった時期のソ連が本書の対象である。
 大まかに言えば、社会主義の思想と運動は一九世紀において資本主義批判と社会改良に重要な役割を果たし、二〇世紀には社会主義国家を生んだ。世界最初の社会主義国家であるソ連の歴史は、計画に基づく生産と分配、自由と平等の両立、実質的な民主主義の実現、国家と社会のあるべき関係の創出、多民族の共生といった様々な理想を掲げた「実験」の歴史だったと見ることができるが、掲げた理想と現実は大きく乖離し、著しい無駄や損失や犠牲を出し、最終的には社会主義を放棄せざるを得ないところにまで至った挙句にソ連という国家自体が解体された。この「実験」が失敗に終わったことは明らかだが、それでもこの「実験」の過程では一定の成果も示されたのであり、掲げられた理想と達成された成果は、多くの国々、多くの人々に直接間接の影響を与えた。
 筆者はこれまで、ソ連の「実験」はいかなるもので、ソ連の人々はこの「実験」にどのように関わったのかを描こうと努めてきたが、本書の執筆に当たっては、本書の読者が何かを考えるきっかけを得られるような、この意味で何かを学ぶことができるような叙述をおこなうことも常に意識した。
 このように述べると、今さらソ連の歴史から学ぶことなどあるのかという疑問を感じる人もいるかもしれない。この疑問に対してはまず前著『ソ連史』で記したことを繰り返しておきたい。

人文科学・社会科学では基本的に実験ができない以上、歴史上の経験という貴重な「実験」から学び得ることは学び尽くすべきではないかと考えている。……ソ連の歴史はまさに壮大な「実験」の歴史であった。……この「実験」は、多大な困難と犠牲を自国民に(時には他国民にも) 強いた末に失敗に終わったのであって、繰り返されるべきではない。だからこそ、「モデル」、「他山の石」、「反面教師」のいずれとしてであっても、ソ連の歴史に学び得ることを見出だし、学び尽くす努力をすべきであると思う。

 筆者は今もこのように考えているが、もう少し具体的に次の二点を付け加えておく。
 第一に、社会主義を称する国は現在も存在しているが、一九八九年の「東欧革命」と一九九一年のソ連解体によって、ソ連に限らず社会主義国全般の「実験」は失敗に終わったと言ってよい。東西冷戦という形でおこなわれた資本主義陣営と社会主義陣営の競争も、社会主義陣営の敗北で終わった。この事実が、かつては社会主義に期待や希望を抱いた人々の多くを諦めさせ、さらには幻滅させたのであり、現在の日本には社会主義の考え方が多くの人々を惹きつける状況はない。
 しかし、資本主義陣営が社会主義陣営との競争に勝利したことは、資本主義に問題や否定的な面が存在しないことを意味しているわけではない。社会主義が資本主義を批判する思想として生まれ、資本主義の欠陥の克服と現状の改善を求める運動として発展したことを思えば、資本主義が存在し、そこに問題が存在する限りは、社会主義的な考え方が完全に廃れることはないだろう。経済状況や社会状況によっては、近い将来に再び社会主義の考え方が一定の支持を受けることもあるかもしれない。そのような時が来るとすれば、社会主義の考え方を支持するか否かを問わず、ソ連の「実験」について熟知しておいたほうがよいだろう。
 第二に、本書の対象時期のソ連は「平和共存」を訴え、西側諸国との「平和競争」に挑んでいた。ここでソ連と西側諸国は経済成長や国民の生活水準の向上といった「共通の土俵」の上で体制の優劣を競っていたのであり、この点で、ソ連の経験のなかでも特に本書の対象時期の経験は、西側諸国と比較したり、そこから学んだりすることのできる可能性が大きいと言うことができる。
 これに関連して言えば、この時期のソ連の経験を、現在の日本のあり方と比較する意味もあると筆者は考えている。たとえば現在日本政府と地方自治体の財政状況は全般に悪く、人口減少と高齢化が進行しているため、行政に一層多くのことが求められる一方で実際の行政の活動は限定されざるを得ないだろう。その場合、住民の自助努力の必要性、行政と住民の共同作業(協働)の重要性が今にも増して強調されてゆくのではないだろうか。本書で見るように、こうした住民の自助努力や行政と住民の協働は、本書の対象時期のソ連で大いに推奨されていたのである。
 また、近年唱えられている「新しい公共」という考え方では、市民は「サービスを受ける客体」であると同時に「サービスを提供する主体」でもあるべきだとされているが、ここにはソ連で求められていた市民のあり方に通ずるものがある。もちろん、本書で述べるように、ソ連の場合は共産主義理念が関係していたという点で今日の日本とは事情が異なるが、市民が求められている内容には共通性を見ることもできるのであり、ソ連の経験と比較すること、ソ連の経験から学ぶこともできるだろう。
 繰り返しておこう。ソ連では様々な理想を掲げた「実験」が大規模におこなわれた。この「実験」は全体として見れば失敗に終わったが、部分的または短期的には成果を上げた例もあった。自然科学と違って社会科学では基本的に実験をすることができない。近年は日本でも社会実験がおこなわれるようになったが、その性格上一般に小規模であり、失敗した場合は実生活において不利益が生じる。自然科学の実験のように条件を様々に変えて実験を繰り返すことも難しい。このため歴史上の経験は依然として社会科学にとっての貴重な「実験」なのであり、成功からはもちろん失敗からも学ぶことはできるから、ソ連の「実験」から学べることは学び尽くすべきである。この意味で本書の執筆に当たっては「教訓としての歴史」、「(そこに自らの姿を映し出す)鏡としての歴史」という歴史のあり方を意識した。
 とはいえ基本的には筆者自身が何かの教訓を語ったり、ソ連の歴史という「鏡」に映して現在の日本を論じたりするものではない。歴史からいかなる教訓を得るかは教訓を引き出そうとする者にかかっており、鏡に自分の姿のどこをどのように映し出すかは鏡を見る者にかかっていると考えるからである。筆者としては、本書で描いたソ連の姿が何かの教訓を引き出す手がかりとなったり、何かを映し出す鏡の役割を果たしたりするよう願うばかりである。

 

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