ちくま新書

天災と国民性

ちくま新書2月刊『天災と日本人』の序章を公開いたします。災害多発列島で暮らす日本人は、どうやって天災と付き合ってきたのか。序章は、ラフカディオ・ハーンを引きながらの、導入部分です。ぜひお読みください。

天災列島、日本

 ギリシャで生まれ、イギリスで育ち、アメリカを経由して、明治23年(1890)4月に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、島根県の中学校や、熊本県の高校で英語教師として勤めたあと、兵庫県神戸市で英字新聞『神戸クロニクル』の記者をしていたことがある。明治27年10月27日、ハーンは同紙に、「地震と国民性」(Earthquakes and National Character)という論説記事を発表している。ハーンはそこで、絶えず自然災害に見舞われるという日本の風土が、特徴的な文化を生み出したのではないかという仮説をもとに、独自の日本人論を展開した。

 

「近年起こった大災害――明日が三周年に当たる岐阜の地震、比較的最近の鳥取と岡山の洪水、つい最近の山形の災難――は、実に国家的な不幸とも言うべき性質のものであった。」

 

 ここにいう「岐阜の地震」は、明治24年(1891)10月28日、岐阜県本巣(もとす)郡西根尾村(現在の岐阜県本巣市)を震源に、7000人以上の死者を出した「濃尾地震」のことである。「鳥取と岡山の洪水」は明治26年10月に襲った台風により、西日本の各地で起こった風水害をさす。岡山県では河川が氾濫し、島根県松江市では宍道湖(しんじこ)が溢れて水浸しになるなど、山陽山陰地方に大きな被害をもたらした。明治23年8月から1年3ヵ月のあいだ松江に滞在したハーンにとって、大水害の報は気が気でなかったことだろう。

 また「つい最近の山形の災難」というのは、明治27年10月22日に山形県庄内平野北部を震源に発生した「庄内地震」のことである。この地震で山形県酒田では大火災が発生し、総戸数の八割が焼失した。また、ハーンの論説記事が掲載された四か月ほど前の6月20日には、東京の下町と神奈川県横浜市、川崎市を中心に大きな被害を出した「明治東京地震」が発生している。八雲にとって、日本は神の国、精霊の国である前に、天災の国として強く認識されたに違いない。

 曲折を経て、ハーンが過ごすことになった日本列島には、約2000の活断層があると推定される。近年でいえば、平成12年(2000)から平成21年にかけて日本付近で発生したマグニチュード5.0の地震は全世界の10パーセント、マグニチュード6.0以上の地震は約20パーセントにのぼる。台風、大雨、洪水、土砂災害、地震、津波、火山噴火、豪雪など、さまざまな自然災害が発生しやすい地理的環境にあり、世界でも災害の発生率が非常に高い、そんな環境のもとで日本の歴史は刻まれてきた。つまり日本の社会や文化、日本人の民俗的な生活感情は、災害と切り放して考えることができないのである。そしてハーンも、「地震と国民性」のなかでこのように記す。

 

「……しかし、定期的に起こるそれぞれの災害の後に見られる日本人の素晴らしい回復力、あるいは苦難に際しての見事な忍耐力を、むしろ称賛すべきなのかもしれない。

実際、回復力も忍耐力も独特なものである。そして、何千年にもわたって日本がまったく同じように苦しんできたことを考えると、そうした異常な条件が国民性に何らの影響を及ぼさなかったと信じることは難しい。」

 

 ハーンによると、日本の「物質的な存在」の特殊性は「不安定性(インスタビリテイ)」にあり、この特徴は、ほとんどすべての日本の建造物の「かりそめ」の性質で実証されているという。

 日本で最も神聖な神社とされている伊勢神宮でさえも、伝統にもとづいて、20年ごとに建て替えられる。日本人は、自然の不安定に人工的な不安定を対置させることによって、厳しく荒々しい環境条件に対処してきたようだ。環境の不安定については、「根気、忍耐力、環境への自己順応性といった類まれな国民の能力の形成を予想できるかもしれない。そして、これらの能力こそ、まさしく日本人の中に見出す資質である」というのだ。

 この記事が掲載されてから二年後の明治29年(1896)、ハーンは東京帝国大学文科大学の英文学講師となり、また日本に帰化して「小泉八雲」を名乗ることになる。その頃ハーンが、ニューヨークの友人にあてて東京から送った手紙には、日本の近況がしたためられている。

 

「洪水、家屋の倒壊、溺死。一連の自然災害の到来は、この国の森林伐採のせいだと思います。私が神戸を離れる直前に、ふだんは乾いて砂地がみえている川が雨の後、堤が決壊し、川の水が町中を一掃しました。その結果、数百戸の家屋が破壊され、100人が溺死したのです。……東部・中部地方では今も相当の地域が川の氾濫で水に浸かっています。琵琶湖の水面が上昇し、大津の町は水浸しです。」

 

 八雲が、明治29年9月に発生した水害を衝撃をもって受け止めていたことがわかる。さらに急速な近代化の渦中にある日本の災害の原因を、大規模で非計画的な森林伐採に求めているのは慧眼ではないだろうか。この書簡には「東北地方の津波のことをご存知でしょう、たった200マイルの長さでしたが、約3万人の命が奪われました」と記されている。西日本の大洪水から3ヵ月前、こんどは東北日本を大地震と大津波が襲っていたのだ。

 八雲はその後、嘉永7年(1854)に発生した安政東南海地震津波をめぐる実話をもとに、「生神様(いきがみさま)」(A Living God)を執筆している。津波災害から村人を救うため、収穫間近だった自分の「稲むら」に火を放ち、村人を救った人物を「生神」と崇める民衆の心情に、八雲は日本人の天災観の一端をみたのである。

「地震と国民性」とニューヨークの友人にあてた手紙、そして創作「生神様」を読むとき、ハーン=小泉八雲がこの島国を理解するために怪異譚や民間信仰への関心とともに、災害に強く心を寄せていたことがわかる。

 

日本人の心性史の一端

 明治日本を代表する啓蒙思想家である福沢諭吉は、東西文明の発達と特色、文明の本質などを論じた『文明論之概略』(1875年)で、「野蛮を去ること遠からざる時代」における、人々の災害に対する捉え方を次のように分析している。

 

「……地震雷霆風雨水火、皆恐れざるものなし。山を恐れ海を恐れ、旱魃を恐れ飢饉を恐れ、都(すべ)て其時代の人智を以て制御すること能はざるものは、之を天災と称して唯恐怖するのみ。或は此天災なるものを待て来らざる歟、又は来て速に去ることあれば、乃ち之を天幸と称して唯喜悦するのみ。譬へば旱(ひでり)の後に雨降り、飢饉の後に豊年あるが如し。」

 

 福沢はさらに続けて、人々は天災を偶然に求め、人為の工夫をめぐらそうとするものがなかったと指摘する。そして、工夫することもなく「禍福」に遭った場合、「人情として」、その原因を人類以上のものに求めざるをえなかったという。

 

「……即ち鬼神の感を生ずる由縁にて、その禍の源因を名けて悪の神と云ひ、福の源因を名けて善の神と云ふ。凡そ天地間に在る一事一物、皆これを司る所の鬼神あらざるはなし。日本にて云へば八百万の神の如き是なり。」

 

 福沢が表明する民衆観はすこぶる近代的なものであり、民俗に属する人々の信仰や畏怖心から距離を置き、それを前近代的な「人情」と捉えて克服しようとする態度である。

 いっぽうで歴史学者の笹本正治は、福沢とは異なり、近代以前の民衆のおかれた状況、生活感情や信仰観念に寄り添った民俗的災害観を語っている(『天竜川の災害伝説』)。現代の人間は水害が起きると、気象条件や被害地の状況など、科学的な視点に立って原因を考え、対処しようとする。けれども近代以前の人々は違ったであろう。「災害の原因意識が私達と異なっていたのなら、水害に対処する方法も私達とは違っていたはず」であり、この点が明らかになれば「日本人の心性史の一端が見えてくるかもしれ」ないというのである。筆者も笹本と同じ問題意識と関心に立って、日本の災害を歩いてみたいと思う。そうするとおそらく、日本人は工夫もせず、悪の神を鎮め、善の神を祀るだけという福沢の考えが正しくないことが理解されるだろう。

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 本書の中心をなす四つの章は、日本列島を繰り返し襲ってきた天災の種類で分けられている。第1章の「水害」は日本では最も頻繁に発生し、信仰や民俗の面でも語っておくべきことが少なくないことから、多くのページを割いた。

 第2章の「地震と津波」も日本の代表的な天災であり、災害の規模も大きく、人的被害はもちろん、地域共同体を壊滅させる場合もある。また将来にわたって発生の可能性もあり、復興への道筋も合わせて、関心も高いことだろう。

 第3章「噴火・山体崩壊」は日本列島の地質・地形に深く関与し、日本人が濃密なつきあいを持ち続けてきたものである。

 第4章「雪害・風害」のうち、雪害は地域の発展を妨げてきた歴史が特筆されるが、今日では近代的交通網の分断という新たな課題に直面している。

 第1章から読み進めていただいても、あるいは興味がある天災についてふれた章から読んでいただいてもいいと思う。