ちくま学芸文庫

『信長公記』と作者太田牛一
『現代語訳 信長公記(全)』文庫版解説

織田信長の家臣だった太田牛一が信長の生涯をまとめた『信長公記』。その記述は詳細かつ正確で、長篠の戦いを始めとするいくつもの出来事の様子をまざまざと伝えています。そんな『信長公記』の史料的性格、そして現代語訳を読む際のアドバイスについて書かれた、金子拓氏(東京大学史料編纂所准教授)による文庫版解説を公開します。

 『現代語訳 信長公記(全)』は『明智光秀』『毛利元就』といった歴史小説で知られる作家榊山潤氏による『信長公記』の現代語訳である。
 作者太田牛一について、また『信長公記』の特色については訳者解説でも触れられているから再説を要さないのだが、本書元版が刊行された1980年(昭和55)以降、牛一やその子孫、そして『信長公記』自体の研究が大きく進展し、様々なことがわかってきている。そこで、以下ではそれらの点にとくに注意を払い、太田牛一の事跡や『信長公記』の史料的性格を述べ、最後に現代語訳のあり方について言及したい。

1 作者太田牛一について

 『信長公記』の作者太田牛一は、大永7年(1527)、尾張国春日井郡山田庄安食(あじき)(現愛知県名古屋市北区・同春日井市・西春日井郡付近)に生まれた。自筆本の一本岡山大学附属図書館池田家文庫本に書かれた慶長15年(1610)の奥書に、生年は丁亥年、八十四歳とあるからである。
 尾張政秀寺(せいしゅうじ)の記録(成立年代不明)には、牛一は同国の天台宗寺院常観寺(じょうがんじ)に育ち、成長してから還俗(げんぞく=僧籍に入った者が俗人に戻ること)し信長に仕えたとある。通称は最初又助(介)、のち和泉守の受領名を名乗り、後年ふたたび又助と名乗った史料もある。諱は信定・牛一が知られる。牛一は「ウシカツ(もしくはウシカズ)」とでも読ませるのかもしれないが、読みが明らかにわかる同時代史料がなく、その場合の通例として、音読みで「ギュウイチ」とも呼ばれる。
 牛一自身『信長公記』には「首巻」に三度登場する。この点すでに訳者解説にて指摘されているとおりである。若い頃は弓三人の衆(弓衆)として信長に仕えていたことがわかるが、信長が永禄11年(1568)に上洛して以降の具体的な立場は不明である。信長の右筆ともされていたが、現在では否定されている。
 ただ明らかなのは、信長家臣丹羽(惟住)長秀の配下として活動していたことである。賀茂別雷神社文書からは、長秀の書状を執筆していた(長秀の右筆だった)ことも指摘されている。信長家臣ではあるが、長秀に付属させられたいわゆる与力であった。賀茂別雷(わけいかずち)神社(上賀茂神社)と信長との間の取次役であった長秀とともに、神社から贈り物が届けられたりしている。天正2年(1574)に開催され、信長の愛馬も出走した賀茂競馬の奉行を担当していたらしい。『信長公記』巻七にこのときの競馬の記事はあるものの、牛一自身は登場しない。他の史料からわかる事実である。このあたりの牛一の記録意識は興味深い。
 記録意識という言葉が出たついでに、ここで牛一が『信長公記』をいかに執筆したのかについて簡単に触れておく。『信長公記』は厳密な意味での日記ではない。牛一がおりに触れて書きためておいた日付のある記事がいわば一枚一枚の「資料カード」となり、それらを後年整理編集して筆録したものと考えられている。
 したがってまれに誤記や年代の誤りも見られるが、書かれていることがらについては他の同時代史料によって裏づけられるものが多く、とりわけ天正3年(巻8)以降はきわめて正確であり、牛一はこの頃から、将来信長の事跡を記述するため備忘録を意識的に整備しはじめたのではないかと指摘されている。
 さて牛一の話に戻ろう。天正10年(1582)の本能寺の変の当時も長秀のもとにあったとおぼしく、信長の死により一時丹羽家の所領加賀松任(まつとう)に隠棲していた。しかし羽柴(豊臣)秀吉の要請により復帰して秀吉に仕え、彼の没後は子の秀頼に仕えた。秀吉家臣時代は『大かうさまくんきのうち』や「太閤御代度々御進発の記」といった秀吉の記録を執筆した。
 秀吉没後も関ヶ原の戦いの顚末を記した『関ヶ原御合戦双紙』(内府公軍記)、慶長9年(1604)8月に開催された豊国祭の記録『豊国大明神臨時御祭礼記録』、同14年(1609)に起きた禁裏女房と公家との密通事件を題材にした『今度之公家双紙』(猪熊物語)などを執筆し、これらの自筆本も残っている。『信長公記』自筆本を含め、年記がわかる自筆本の多くが83歳から84歳にかけて執筆(浄書)されており、晩年における旺盛な執筆活動がうかがえる。
 没年は慶長18年(1613)とされる(ただし同時代史料では裏づけられない)。享年87。没後、太田家は彼の二人の子小又助某と又七(郎)牛次の二家に分かれ、前者は江戸時代加賀藩前田家に仕え、後者は摂津麻田藩青木家に仕えた。子孫たちが仕えた先の家の祖もまた、それぞれ信長・秀吉に仕えた人物(前田利家・青木重直)である。牛一の没年は、加賀の太田家が作成した系図より判明する。

2 『信長公記』の成立について

 『信長公記』は、信長が上洛した永禄11年から、本能寺の変で没した天正10年までの15年を1年1巻(冊)、計15巻(冊)にまとめた書物である。これらのほか、俗に「首巻」と呼ばれる上洛以前の時期の記録がある。
 15巻本は自筆本が2点伝来しているが、「首巻」の自筆本は現在確認されておらず、写本のみが知られている。自筆本としては、ほかに、巻1にあたる永禄11年の記事のみを巻子一巻に仕立てた『永禄十一年記』(尊経閣文庫所蔵)、おもに大坂本願寺との戦いに関する記事を編集した『別本御代々軍記』(『太田牛一旧記』とも。織田裕美子氏所蔵)が伝えられている。
 15巻本の自筆本2点とは、池田家文庫本(池田家本)と、信長を祀る京都建勲(たけいさお)神社が所蔵する本(建勲神社本)である。いずれも現在国指定重要文化財となっている。池田家本には先に触れた奥書があるのに対し、建勲神社本には奥書がなく、執筆年代はわからない。内容などを比較するかぎりでは、池田家本が先に書かれ、その後建勲神社本が作成されたと推測される。
 ただし池田家本には、建勲神社本に記載がある情報が追記されるなど補訂の痕跡が見られることもあり、単純な前後関係で両者を語ることはできない。池田家本は牛一が長く手もとにおき、機会あるたびに修正を加えていった、いわゆる手沢本である可能性があるからだ。
 くわえて池田家本には、最終的な献呈先と目される池田輝政や彼の父恒興・兄元助に関わる補訂(修正・加筆)が見られることなどから、牛一は贈り先に合わせて本文を改変していたことがわかっている。牛一が献呈先を意識して執筆・補訂をおこなっていたことは、他の著作においても明らかにされているところである。
 本現代語訳の底本我自刊我(がじかんが)本は、右の自筆本のうち建勲神社本の系統に位置づけられる。明治14年(1881)に、甫喜山(ほきやま)景雄という元文部省官吏・新聞人が編纂刊行した「我自刊我書」という活字叢書に収められた一本である。この本文はのち近藤瓶城編『改定史籍集覧』に収められ、さらに日本史家桑田忠親氏により読み下しにされて『戦国史料叢書』(人物往来社)から刊行され、広く読まれてきた。
 我自刊我本の底本は町田久成蔵本とされている。町田は旧薩摩藩士であり、博物館(帝室博物館、現在の東京国立博物館)の初代館長となった人物である。甫喜山とは文部省の官歴が共通する。古物蒐集を好んだという町田の手もとにあった伝本が甫喜山に提供されたのだろう。
 注意しなければならないのは、いわゆる「首巻」が15巻の前に置かれ、「首」と名付けられたのが、この我自刊我本を濫觴とすること、つまり明治になってからそう組み合わされたことである。「首巻」は本来無題であり、訳者解説にもあるように表紙に「是ハ信長公御上洛無以前の双紙也」と記されていたに過ぎない。
 そもそも町田本の祖本である建勲神社本は、信長の二男信雄の系譜を引く近世大和戒重藩の藩主織田長清(1662-1722)が蒐集したものである。長清は、水戸藩史官佐々宗淳(『水戸黄門』に登場する「助さん」のモデルとして知られる人物)の薫陶を受け、牛一自筆の15巻本(=建勲神社本)、同じく「信長公御上洛無以前の双紙」(自筆本は現在散逸)などを手に入れ、それらをもとに享保3年(1718)『織田真紀』という信長の記録を編纂版行した文人大名であった。蒐集の過程で15巻本と「信長公御上洛無以前の双紙」の写本を作成し、そのひと揃いを近衛家に献上した。これが角川文庫版『信長公記』の底本となっている陽明文庫本である。
 これまでの研究では、「信長公御上洛無以前の双紙」、いわゆる「首巻」は、時間的には15巻本が成立したあとに執筆されたのではないかと考えられている。もちろん、信長の事跡という共通した主題のもと書かれたことは間違いないが、「首巻」と15巻本は本来別個に成立し、江戸時代織田長清によって組み合わされ(したがって池田家本に「首巻」は存在しない)、明治になって信長以前の記録が「首(巻)」と呼ばれ、時間順にまとめ直された。それが現在一般に流布している『信長公記』であることに注意しなければならない。

3 榊山潤氏の現代語訳について

 『信長公記』の原文はいわゆる《和様漢文体》で記され、しかも牛一独特の言い回しも見られるため、一般にはかならずしも馴染まない。それゆえの読み下しによる戦国史料叢書版や角川文庫版での刊行であったと思われる。その後も本文庫版の元版や中川太古氏による現代語訳(新人物文庫)が世に出て一般読者に迎えられ、『信長公記』に描かれた歴史世界が広く浸透したことは高く評価される。そのうえ本文庫版によって、さらに多くの人の目が『信長公記』に注がれることは喜ばしい。
 しかしながらあくまで本書が「現代語訳」であることには注意する必要がある。もちろん古典的文体とはいえおなじ日本語からの訳である点、外国語からの翻訳と次元が違うことは言うまでもないが、訳である以上、訳文には、訳者の思想や、それが作成された時代の風潮、研究のあり方が大きく影響していると考えておかなければならない。
 たとえば信長の人間像ひとつとっても、訳者解説において榊山氏が述べているような「時代を先取りした」「近代性」や絶対者への志向などについて、はたして本当にそうだったのかどうか、近年様々な側面から検証が進んでおり、批判的見解も出されている。
 筆者個人の研究に引きつけて言えば、信長が全国統一という意味での「天下統一」を目指していたのか(そうした《野望》をもっていたのか)について、以前疑義を提示した。
その立場から訳文を読み直すと、たとえば巻8の(4)に、「信長公は名を後世に残そうと望まれ、数か年は山野・海岸をすみかとし、武具を枕として弓矢をとる者が目ざす天下統一の事業のために、かずかずのご苦労を続けられている」とある(文庫版218頁)。傍点部分の原文を読み下すと「弓箭の本意業として」である。
 「弓箭の本意」はすなわち「天下統一の事業」であって、信長も当然これを目指していたとするのは、従来の戦国大名観、そして信長観にもとづいてのものであろう。この解釈を間違っていると言うつもりはない。現在の戦国大名研究、またそれを受けての筆者の考えでは、かならずしもそう考えられているわけではなく、また違った解釈も可能だろうということである。
 このように『信長公記』本文はそうした解釈の多様性を含んでおり、別の言い方をすれば、解釈の楽しみがなお残されているのである。現代語訳に目を通して、「原文ではこの部分はどう表現されているのか」と疑問を持ったり、『信長公記』の世界にさらに深く分け入りたいという意欲をもった読者も多いと思われるが、残念ながら『信長公記』には、厳密な校訂をほどこした活字定本がまだ存在しない。
 部分的には、「首巻」が『清洲町史』『愛知県史』といった自治体史によって活字化されており、池田家本は影印本(写真版)によって自筆本の雰囲気を味わうことができるものの、なかなか一般の目には触れにくい。現在そのような状況を打開すべく、『信長公記』の本文刊行に向けて準備をおこなっているところである。もう少しお待ちいただきたい。

補記 本稿執筆にあたり、多くの研究を参考にした。太田牛一のこと、『信長公記』のこと、信長の政治志向などについて関心を持った方は、堀新編『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年)・拙著『織田信長という歴史』(勉誠出版、2009年)・拙編『『信長記』と信長・秀吉の時代』(同前、2012年)・拙著『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書、2014年)を参照されたい。それらのなかで関係する史料や研究が紹介されている。
 

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