ちくま文庫

食を切り口にした鮮やかな戦後女性史
阿古真理『昭和の洋食 平成のカフェ飯――家庭料理の80年』解説

2月刊行のちくま文庫、阿古真理著『昭和の洋食 平成のカフェ飯――家庭料理の80年』より、上野千鶴子さんの解説を公開いたします。この本は、映画やテレビ、雑誌、小説、マンガ、レシピ本など、メディアに描かれた食の風景を通して、80年にわたる家庭料理と家族と社会の変化を読み解いていくものです。上野さんはこれを日本の「戦後女性史」として読みといています。

 食を切り口にすると、こんなにも鮮やかに戦後女性史が描けるのか……一読、驚嘆
した。
 人間の欲望は食と性。そう言われるが、性欲は満たさなくても死なないが、食欲は
満たさなければ生きていけない。それに性は非日常かもしれないが、食は日常そのも
のだ。「食べる」ことを切り口にすると、庶民の日常生活の歴史、家族の変貌、主婦
の戦後史、台所のエネルギー革命に流通革命、消費と欲望、世代間伝承とその断絶
……がからみあって万華鏡のように浮かび上がる。いや、ジグソーパズルのように、
というべきだろうか。知っていたはずの断片があるべき場所にひとつひとつはめこま
れると、ひとつの時代の絵柄が浮かびあがる。そうか、そうだったのか、と読者は自
分が生きてきた同時代史を、ふりかえって確認する思いがするだろう。
 この本は、読者のあなたの食歴を通じた自分史のリトマス試験紙にもなるだろう。
本書に出てくるメニュー名を見て、そのうちどれだけを実際に食べたことがあるか、
あるいはそのなかで何種類を自分で作れるか……多くの読者は、本書の著者が予言し
ているとおり、食の伝承が断絶していることに愕然とするにちがいない。
 その背景にある著者の情報量は膨大なものだ。あとがきで本人がいうとおり、「わ
れながら『渾身の』という表現がふさわしいエネルギー量」を投入したものだ。もっ
とていねいに論じたら大部の著作になりそうなてんこ盛りのネタを、こんなに駆け足
で走り抜いて、もったいないと思わないのだろうか、と心配になるくらい。
 本書のアプローチは食の実証研究ではない。料理雑誌とドラマを中心にした一種の
メディア研究である。本書の後に登場してベストセラーになった『小林カツ代と栗原
はるみ 料理研究家とその時代』(新潮新書、二〇一五年)でも、目の覚める思いがし
た。ちなみに本書に、食ドラマのモデルのようなNHK朝の連続テレビ小説「ごちそ
うさん」が出てこないのは、本書の初版刊行(二〇一三年)後に放映されたからだろ
う。め以子のモデルは小林カツ代と言われている。
 感心したので、毎日新聞の書評欄に、こう書いた。「高度成長期から今日までの主
婦と食卓の歴史を『料理本』を素材に、時代が求めたレシピと、それを伝える料理研
究家の生き方を縦糸に、女性の主婦化や職場進出を横糸に、戦後女性史の織物を織り
上げた秀作。目のつけどころがよい。」(「毎日読書日記」毎日新聞夕刊二〇一六年四月十二日付け)
 ついでにこんなに才気あふれるブリリアントな才能が、どうしてアカデミックな女
性学から生まれないのだろう? と八つ当たりしたい気分になった。考えてみれば、
阿古真理さんに限らず、雑誌文化が好きで、雑誌文化にライターとして鍛えられ、雑
誌文化のなかで育った才能が、ぞくぞく生まれているのだった。
 だから、本書のメディア研究は、著者の本領発揮のホームグラウンドなのだろう。
料理雑誌に限らず女性誌のクッキング頁に登場するレシピを詳細に調べる。好きでは
まった連続TVドラマやコミックに登場する料理やレシピを採集する。わたしも見て
いたはずなのに……読みとばしたり、見過ごしたりした食のディテールを、歴史とい
う比較の文脈に置くと、変化が手にとるようにわかる。
 もちろんいくら雑誌や料理本、そしてTVやドラマなどのメディアを研究しても、
食生活の実態には迫れない。メディアのなかの料理にあこがれたり、料理本のレシピ
を読んでいる読者が、そのとおりの食生活を送っているとは限らないからである。
 著者も、そのことはよくわかっている。日本人の食の実態に迫るには別のアプロー
チが必要だ。本書の中でも紹介しているが、アサツーディ・ケイに勤務していた岩村
暢子さんの実証研究、『変わる家族 変わる食卓』(勁草書房、二〇〇三年)をはじめ
とする三部作から、衝撃的な食の崩壊の現実を知ることができる。また味の素株式会
社が一九七八年から蓄積した貴重な実証データをもとに、食生活の変化を分析した社
会学者による共同研究が、品田知美編『平成の家族と食』(晶文社、二〇一五年)にま
とめられている。
 だが著者の関心は、きっとそこにはない。メディアからわかるのは、あくまでメデ
ィアに投影された読者の欲望である。その欲望の変化が、そうだったのか、と胸に迫
るのだ。
 欲を言えば、男の書いたグルメ本、吉田健一や池波正太郎、果ては渡辺淳一の『失
楽園』のカップルが心中前に食べた最後の食事……などについても、触れてほしかっ
た。また食の評論家と言われるひとびとが登場し、職業として成立したことにも。男
のための食の雑誌『dancyu』に触れているのだから、男の食への関心(とその不
在)についても論じてもらえば、男女の非対称性がよく浮かび上がったことだろう。
 だが、たぶん、著者の関心はそこにもない。「男の料理」が非日常であるのに対し
て、著者の関心はあくまで日々の暮らしのなかの食事だからだ。
「誰かが暮らしを奪おうとしても、私たちはすぐに立ち上がり、今日のご飯を作り始
める」……そのとおり、敗戦後の混乱の中でも、三・一一の津波の後の避難所でも、
そうやって女たちは日々の食事をつくってきた。
 だから……本書を読み終わったら、本を閉じて台所へ向かおう。さあて、今日は何
を食べようか。何を作って誰に食べさせてあげようか……著者の背後には、そういう
まっとうな暮らしへの希求があるはずなのだ。
(うえの・ちづこ 社会学者)

 

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