藤原和博×宮台真司

「子どもに教えたい、新しい道徳」対談 第1回
藤原和博著『新しい道徳』 (ちくまプリマー新書)刊行記念

鈴木 私が国会議員をやらせていただいている最大の理由は、宮台さんが考えていること、そして藤原さんが実践していることを、私が引き受けて、具体化・制度化して、世の中に広めていくためです。長く、文教科学委員会に所属して教育問題をやらせていただいておりますが、今日の「子どもに教えたい、新しい道徳」は、ほんとうにいいテーマだと思います。なぜならば、特にこの2年間、国会で、新聞で、テレビでと、さまざまな教育論議がなされましたが、私はものすごく不満でした。残念ながら、道徳の話にしても、国会の議論は現場の抱えている問題に対して、何の答えにもなっていませんでした。
 先日お辞めになった安倍総理が作られた教育再生会議は、6月1日に第2次報告を出しました。そのコンセプトは、「社会総がかりで教育再生を」です。「社会総がかり」というのは、まさに藤原さんが地域で実践していらっしゃることや、私と金子郁容さんがいっしょに考えてきたコミュニティー・スクール構想などの焼き直しにすぎません
 第2次報告の提言の一つは、「全ての子どもたちに高い規範意識を身につけさせる」でした。9月10日の安倍総理最後の所信表明演説でも、教育については「規範意識」ばかりでした。現在は教科ではない「道徳」を「徳育」と名前を変えて、「国語、算数、理科、社会」と同じように教科にして、「現在の道徳の時間よりも指導内容・教材を充実させる」というのが、教育再生会議がやりたかったことでした。しかし、ちょうど先日(9月15日)中教審が開かれて、結局「徳育の教科化」は見送ろうという話になりました。 「道徳」が教科として日本に導入されたのが、1958年です。ですからほぼ50年、「道徳教育」や「人格の形成」などということを巡って、日本の論壇は私からすると現場には全く響かない不毛な論争をずっと続けてきたわけです。教育再生会議もそうでしたし、教育改革国民会議もそうでした。この50年の不毛な議論から、早く脱却したいのです。
 そのために必要な知恵を語れるのは、まさに宮台さんをおいて他にいらっしゃらないし、藤原さんが校長を務めている杉並区立和田中学校は現場が明らかに道徳的にも改善されています。今日は、まさにこれからの50年に向けてのお話を伺いたいと思います。
 いじめや犯罪の低年齢化などが問題になると、すぐ規範意識が大事だ、公共心が大事だ、という話になってしまっています。なぜいじめが起きているのか、なぜ犯罪が低年齢化しているのかの議論がすっぽり抜けています。だから、とんちんかんな「規範意識」議論に飛んでしまいます。そのあたりの背景を、宮台さんはどのようにお考えですか。
宮台 近代化あるいは、戦後の再近代化――都市化や郊外化――において、一方で従来なかったものが生まれ、他方で従来あったものが消え、混乱する人々が出てきます。それを埋め合わせるべく、統治権力が市民に――国家が国民に――統合を要求します。道徳教育などです。国民からも統合要求が出て来るので、国家が国民に統合感覚を供給します。犯罪処罰や外交において「断固たる措置」を求める国民に応えて、重罰化し、制裁措置を強化するなどです。そうした図式で、戦後何度か道徳教育を求める動きがありました。
 世界的には、1980年代の欧米における優勝劣敗的なネオリベ政策で、階層分化が進み、医療や教育などが荒廃し、犯罪が増えます。それで、そこでもやはり統合要求が出てきて、内政においても外交においても「断固たる措置」がとられました。これをネオリベ(新自由主義)とネオコン(新保守主義)のカップリングと言います。日本も小泉内閣による20年遅れのネオリベ化に対応して安倍晋三の規範意識キャンペーンが出てきます。定番かつ凡庸なものです。
 ですが、マルクスやルカーチも言うように、社会問題の手当てには、社会問題を生み出すシステムの温存という側面も伴いがちです。ネオリベとネオコンのカップリングも、ネオコン化つまりグローバル化に伴う優勝劣敗化を温存したまま、統合要求で不安を埋め合わせて良いのかが問われます。そこは国のあり方をめぐる根本的デザインの問題になります。
 民主党が政権奪取を狙う場合、国民に訴える目標として大きく三つあり得ます。第一は「社会保険や年金制度への不信を取り除く」。第二は「地方を疲弊や空洞化から回復させる」。第三は「教育を再生する」という三つの目標です。安倍内閣も言葉としては同じ三つの目標を掲げていましたが、問題は優先順位です。最も重要なのは教育です。安倍内閣と同じですが(笑)。
 問題は中身です。イギリスでは、70年代まで「揺籠から墓場まで」的な福祉国家政策でしたが、財政破綻を招き、市場原理主義的なサッチャー政権になります。これがネオリベです。ネオリベと呼ぶのは、思想としてのリベラリズム(自由主義)というより、福祉国家政策の欠陥を克服する政策パッケージに過ぎないからです。
 ネオリベ政策の結果、公的部門(教育や医療)や地域の空洞化が起きます。これを一方で「家族は大切だ」的な「道徳主義的ふりかけ」で埋め合わせ、他方でフォークランド紛争を使ったナショナリズムで埋め合わせました。
 でも、サッチャーを継いだメイジャー政権でも公的部門ならびに地域の空洞化は覆うべくもなかった。それで労働党ブレア政権でスウィングバック(揺り戻し)します。ブレアは最初の所信表明で「一に教育、二に教育、三に教育」と言います。彼のブレインが社会学者アンソニー・ギデンズ。「第三の道」を提唱した人です。なぜ教育なのか。
 社会の再生には、道徳よりも賢明さが必要だからです。国民が賢明でなければ、社会のメカニズムの欠陥が原因の混乱を、道徳的表出で埋め合わせてしまう。わざと社会的混乱で不安を煽って「鎮められるのは俺だけだ」と侠気を示す人気主義者を、英雄だと思い込むボナパルティズムに支配されてしまう。経済が回っても社会が回らなければやがて経済も回らなくなることを知らずに、経済を回すために社会をボロボロにしてしまう。まずいでしょう。
 ギデンズ=ブレア的な発想では、「何がよい社会なのか」を適正に判断できる知恵や経験を身につけてもらうことが教育なのです。単に計算力や語学力の上昇を意味するわけじゃありません。対照的に、日本の政治家たちは、道徳教育と学力低下しか問題にしません。賢明さの代わりに道徳を要求する。賢明さの代わりに学力上昇を要求する。あまりにも馬鹿げています。
鈴木 そうですね。今日はいまのお話をふまえて、「新しい道徳」って何なの? ということについて、僕ら3人で道筋をつけたいと思っています。
 藤原さんは今の中学生と接してこられて、もう5年が経ちました。メディアや教育再生会議などは「いじめや犯罪の低年齢化がいちばんの問題だ」と言っていますが、本当にそうなんでしょうか。われわれ大人たちは、何をいちばんに解決しなくてはいけないと思われますか。
藤原 結局、いま宮台さんが指摘されたように、日本の大人たちが思考停止してしまっている。このことが、さまざまな問題の一番の原因になっているわけです。
 思考停止してしまっていると、教育の現場でも、たとえば「環境が大事だ」というと環境教育、「ITが大事だ」というとIT教育、「やはりボランティアも非常に大事だ」というと福祉ボランティア教育……というように、全部レッテルを貼られていくわけです。
 その一環として、たとえば、少年が事件を起こすと「やはり思いやりが足りない。心の教育だ」となるし、仮にどこかの小学校で、ウサギをいじめて殺したということが起こると、ものすごい勢いで報道されて、「いのちの教育が大事だ」ということで、全国の小学校にビオトープができていくけれども、1年経って行ってみるとそのうちの半分が枯れている……そういう非常に付け焼き刃で対症療法にもならないことが起こるわけです。とりあえずワーッとマスコミが騒ぐと、それがファションになる。いまなら環境とかエコかもしれませんが、それに「教育」という文字をつけて現場に下ろしてくるんです。
 ほんとうに根っこのところで直さなければならないのは、まず大人の思考停止状態をなんとしてでも解除して、まず思考すること。宮台さんの言葉を借りれば、規範意識よりも、やはり賢明さでしょう。これはおそらく、感情で押し切るタイプの行動規範ではなくて、理性で一つ一つの問題をチェックしていくこと。英語でいうと「critical thinking」(クリティカル・シンキング)です。欧米では国語の学習のことを、ほとんどcritical thinkingの方法を学習することと捉えている。ある物事に関する記事を読んだら、それを批判的に捉えて自分の意見を形成し、それを相手に対して発言して、相手の態度を変容させていく。日本でも、そういう賢明さが必要な時代に入ったのです。
宮台 メディア・リテラシーですね。 藤原 メディア・リテラシーも含みます。私自身の言葉でいえば、「情報編集力」が求められていると思う。問われたら記憶の中から「正解」を引っ張り出す力ではなく、自分自身が納得し、かつかかわる他人も納得させられる「納得解」を出す賢明さのこと。「正解」を言い当てる「情報処理力」ではなくて、自分が蓄積してきた知識、技術、経験を組み合わせて「納得解」を導く「情報編集力」ですね。 『情報編集力』という、そのものズバリの本を鈴木さんといっしょに出したのは、10年前でしたね。
鈴木 そうです。
藤原 要するにもう、レッテルを貼っただけの教育で思考停止しているわけにはいかないということ。そういう教育が端的に言って破綻するのは、次のような場合です。皆さんも具体的なケースとして考えてみて下さい。
 まず軽い質問から。小中学生があなたに「なんでいじめちゃいけないの?」と訊きます。あなたはどう答えますか? 「道徳的にそれは禁じられている」と言うでしょうか。何と答えても言いんですが、「小泉さんが首相だった時に、国会でもやってなかった?」と返されたら、どう答えるんでしょうか。
 もう一つ。ちょっと難しい質問。「なんで自殺しちゃいけないの?」。これは、昔からの感情的に押しつけるタイプの道徳が破綻することを予言できる、その証左になる質問です。
 小中学生に、「おじちゃん、おばちゃん(あるいは、お姉ちゃん、お兄ちゃん)、なんで自殺しちゃいけないの?」と聞かれたら、自殺はいけないということを、あなたは、どのように正当化するでしょうか。道徳的にいけないということを証明できる人はいますか?
 これはできないと思います。なぜかというと、もし私が、言い方は別として「だめだよ、そんなの」と言ったとします。そうしたら、ちょっと頭のいい子は「だって、校長先生、大人は1年で3万3千人も自殺してるでしょう? もしそれは道徳的に悪いと校長先生が言うんだったら、この3万3千人の人たちって、みんな悪い人なの?」と言うかもしれません。どう答えられるでしょうか。悪いわけはないんです。ほんとうに悪い奴らはおそらく他にいて、いまも生き残っています。この半分ぐらいの人は、そういう奴らに騙されちゃったり、押し切られちゃったりした被害者かもしれないですよね。
 さらにもうちょっと頭のいい小学生が「だって、松岡大臣もしたじゃん」と言った瞬間、松岡大臣が悪だということを証明しなければ、道徳的に自殺が悪いということは言えないということになります。つまりこの質問に対しては、もう道徳的に教条主義で押し切ることはできないわけです。
 だったらどうするかというと、理性を働かせて賢明さを発動しなければいけない。そのことをさきほど私は納得解の導き方、あるいは「情報編集力」と言いました。この情報編集力を磨くための授業が必要で、それが〔よのなか〕科なわけです。たとえば、自殺ということをどう考えさせるかというと、隣の人と二人で組んでもらって、片方がもうビルのフェンスの向こう側に立ってしまっている自殺志願者を、もう片方がそれを発見して屋上に駆け上がってきて、止めようとする自殺抑止者を、それぞれ教室で演じる。そして、自殺志願者と抑止者がどのような会話をやれるかということを、授業でやりながら賢明さを磨いていく。そういう授業でもしないと、思考回路が廻らない。
宮台 僕は〔よのなか〕科の初期のプログラムに参加させて頂いて、自殺のロールプレイについて生徒たちに再確認してもらうためのスピーチをしました。自殺のロールプレイで非常に重要なことは、自殺を止める際に何が有効なメッセージになるのかを、実体験できることです。
 藤原さんがおっしゃったように「道徳的に許されていない」という説明は、誰よりも道徳的な人間が自殺に追い込まれる例で容易に粉砕できます。「人のいのちは大切だ」という説明も、大量破壊兵器保有のでっち上げによるアメリカのイラク攻撃を、日本が全面支持していることなど、社会が人の生命を大切にしていない実例を10個あげれば粉砕できます。
「生きていればいいことがある」という説得もダメ。「俺よりもはるかに恵まれた境遇にいるお前にそんなことがなぜ分かる?」と反発されて逆効果です。「死ねば家族や友達が悲しむ」という説得もダメ。「俺がどんなに苦しくても今まで誰も助けてくれなかったぞ」と反発をかって終わり。
 実際に自殺を止められる言葉は「自殺しないでくれ。自殺したら俺が悲しい」だけです。でも条件がある。この言葉を信じられるような日常的なコミュニケーションの積み重ねがあるかどうかです。それがあれば止められます。要は互いに自分の行為や体験にとって相手の存在が前提であるような関係性を日常的に作れているかどうか。逆にこのことから昨今自殺が増えている原因を推察できます。要は、道徳でなく関係性の問題なのです。
 同じことは他殺にも言えます。酒鬼薔薇事件の直後、14歳の子どもたちに「人を殺してはいけない理由を説明してください」などという特集をした雑誌がありました。馬鹿げている。「人を殺しちゃいけない理由」はありません。なぜならどの社会にも「人を殺しちゃいけない」というルールは存在しないからです。
 どの社会にも「仲間を殺すな」というルールと「仲間のために人を殺せ」というルールしかありません。アメリカも日本も含めてすべての国の戦争はこのルールに基づいています。日本には先進国では珍しく、国家レベルで死刑制度があります。死刑もこのルールに基づいています。死刑制度がない国はあっても、武力攻撃されて反撃しない国はありません。
 じゃあ、我々が人を殺さないのは、「仲間を殺すな」というルールがあるからか。これも違う。我々が殺さないのは「殺せない」からです。「殺せない」のは「殺せないように育っているから」です。「人を殺せ」と言われても多くの人は殺せません。大喧嘩をしている場合にも、多くの人は「殺す」という選択肢を思いつけません。
 「殺せないように育つ」とはどう育つことか。道徳を教えられることか。全く違います。自分の尊厳――自己価値――にとって、他人が存在して自分を承認してくれることが自明の前提であるような育ち方をしているかどうかです。少年による殺人が社会問題化する昨今、道徳を教えろという道徳主義者は単なる馬鹿でしょう。他者の存在を前提とした尊厳以外のものがあり得ないような成育環境の整備こそが重要だと考えるのが、賢明さです。
鈴木 ここで、藤原さんが実践している〔よのなか〕科を紹介してもらいましょう。私も和田中で、よのなか科の1パーツを授業させていただいております。
藤原 〔よのなか〕科にはいくつかの特徴があります。一つはロールプレイを徹底的にやることです。人の身になってやってみる。自分が主体になってやってみる。それからもう一つの特徴は、大人と子どもが混じって学んでいるということです。大学生がたくさん入ってきています。土曜日に学校を手伝ってくれている大学生に、〔よのなか〕科にも加わってもらって、100人の生徒に対して30人ぐらいの大人が入って、一緒に学んでいます。生徒たちは、その日初対面の大人と組むこともあります。当然正解はありません。
鈴木 〔よのなか〕科は年間何回ほどやられるんですか?
藤原 24~30回です。
鈴木 先程その一例として、いじめ、自殺というテーマを紹介して頂きました。他にはどんなものがありますか?
藤原 今度、裁判員をテーマにします。14歳の少年がナイフで友人を刺したというケースを読ませて、模擬裁判をします。弁護士だったらどういうふうに守るのか。検察側だったらどうやってつついていくのか。これをロールプレイします。生徒には6人ずつのチームを組んでもらい、2人~4人の大人にも入ってもらいます。そうして弁護人3人と検察官3人を設定して、大人にジャッジをやってもらい、ある種のディベートみたいに、すべての班で同時にミニ模擬法廷をやっていく。
 あるいは、新宿で暮らしているホームレスの人を招いて、「ホームレスは社会のゴミか」というディベートをする。昨年それをやったときに、そのホームレスの人は約100人の生徒たちの眼差し、それも真面目に話を聞こうという眼差しを浴びて、言葉が詰まって泣きだされたことがありました。
 そういうリアルな世の中を学校の中に引き入れて、世の中と共に学ぼうという授業をしています。そうやって正解が一つではないことについて、大人といっしょになって繰り返し議論していかないと、パターン認識の魔術から外れられません。通常の教科授業では、国語にしろ数学にしろ英語にしろ、みな「覚えろ、覚えろ」で、パターン認識力や情報処理力は上がりますが、納得解の導き方、すなわち情報編集力は、別の形でないとどうしても学べないのです。
鈴木 1年間授業を受けると、生徒たちは変わりますよね。名だたる大学教授とか作家とかが、たじたじになっちゃいますものね。
藤原 実は12月に『新しい道徳』(ちくまプリマー新書)という本を刊行することになりました。ここで初めて発表するあるデータがあります。結局少年の自殺は増えたのか? という問題についてのものです。詳しくは本を読んで頂きたいのですが、報道の影響が現れているとしか思えないデータが出ています。
 ヨーロッパなどではこのような場合、報道規制が敷かれていて、たとえば遺書が出るなんてことはありません。なぜなら、自殺する動機を明かしてしまうと、同じようなことで悩んでいる人が「あっ、死ねばいいのかな」と思ってしまうからです。同じ理由で、自殺の方法が報道されることもありません。
 一番まずいのは、子どもたちが死ぬことによって復讐できると思ってしまうことです。僕は一連の報道で、そういう傾向が非常に強まったのではないかと思います。実際は、復讐は、できません。死んだら終わりなわけで、警察や先生に懲らしめられているイジメっ子を、やや上方からながめている神のような自分というのは存在しないわけです。けれどもそれが、あるかのように思ってしまう。僕はそれを非常に危険だなと思っていた。でも、思ったとおりの結果になっていました。

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