藤原和博×宮台真司

「子どもに教えたい、新しい道徳」対談 第3回
藤原和博著『新しい道徳』 (ちくまプリマー新書)刊行記念

鈴木 全国の状況を補足説明したいと思います。藤原さんは何の法律改正も何の補助金もないときから、藤原さんご自身の才覚で、和田中をまさに地域によって支えられた学校、つまりコミュニティー・スクールにしてきました。和田中は藤原さんがいるからできるんだ、と皆さんは思われるかもしれませんが、藤原さんほどの人がいなくても、普通の市民だけでも実行できるよう、法律改正が2004年に行われています。コミュニティー・スクール法という法律で、僕の議員一期目はまさに、この法案をつくるがためにソーシャル・スキルを駆使してきました。その後、コミュニティー・スクールは全国で200校できました。藤原さんが言う、こういう学校を1万校作っていくというのは、荒唐無稽なことでもなんでもないんです。さらに、教育再生会議が頓珍漢な議論をしている間に、藤原さんなどが、文科省の人たちときちんと議論をして、地域本部に対する補助制度もできました。ですからいまや「法律のせい」とか、「金がない」とかは言い訳になりません。
 ちなみに三鷹市は、全部の小中学校がコミュニティー・スクールになりました。たとえば、三鷹第四小学校は200名のボランティアがいますが、藤原さんみたいなカリスマはいません。ボランティアが、作文とか算数とか、授業のサポートまで入り込んでいて、明らかに成果があがっています。京都市や出雲市も全校がそうですし、新宿区も3年以内にそうなる予定です。いま、どんどんそういう動きが進みつつあります。杉並区とか三鷹市というと、教育が盛んなところばかりイメージしてしまうかもしれませんが、実はコミュニティー・スクールの第一号は足立区五反野小学校です。そして地価がいちばんあがっているところは、京都の御所南小学校です。そういうふうに、東京の山の手ではなくて、地方でも、下町でも、どこでもできるということは、事実として証明されています。
 ただ問題は、これだけの条件整備が6、7年で急速に進んでいながら、鈍感な校長とか、首長、国会議員、地方議員がいることです。これをどうするかという問題が残っている。そこをクリアすれば1万校はいけます。このところは宮台さん、どうしていったらいいでしょうか。
宮台 日本には「右か左か」という間違った二元論に縛られたネオコン風の人があふれています。特徴は「観念的で、排除的」であること。これらと反対に「現実的で、包摂的」なあり方が必要です。ネオコン(新保守)と区別される意味での、バーク=マンハイム流の保守主義は「現実的で、包摂的」なあり方を自覚的に選択する立場です。そもそも自称マルクス主義者たちの「観念的で、排除的」なあり方に対抗するためのポストフランス革命的立場ですからね。
 その意味で、ネオコンとリベラルは両立しませんが、保守主義とリベラルは両立します。ネオコン的なものと対照させて敢えて「保守リベラル」と呼びます。そうした立場が必要です。要は「自分たちを支える前提の何たるかを、全て見通すことの不可能性を自覚しつつ、それでも見通そうとする立場」です。その意味で保守リベラルは社会学の伝統とよくマッチします。
 ルールが大事だとか道徳が大事だとか言っても、それを厳格化することで前提が壊れるのであれば、厳格化をしない。それが保守リベラルです。暴力団や性風俗の例は、保守リベラルの大切さを示します。鈍感な校長とか首長とか議員の多くは、保守リベラルというより、安倍晋三的=新住民的=つくる会的=2ちゃん的な「お笑いマスターベーション右翼」でしょう。小泉流の選挙戦略をサポートした竹中平蔵PR会社が、賢明にもターゲットにした層ですね。
鈴木 僕がコミュニティー・スクールや地域本部の普及に力を入れているのは、もちろん一番は教育のためですが、同時に、日本の社会や民主主義を根底から作り直すためでもあります。というのは、いちばん近い公(おおやけ)が学校です。だからこそ、藤原さんは学校の中に地域を再生するということを言っておられるのだと思います。コミュニティー・スクールをボランティアと一緒になって作り上げていく中で、庶民が市民になり、市民がどんどん生まれていくという現状が起こっています。その人たちが地域の民主主義を作りつつあるなと、僕は実感しています。ただそのときに従前と変わらないテレビなどとの、葛藤や対立をどう乗り越えたらいいのかというあたりが、次のポイントかなという感じがしています。
宮台 イギリスでサッチャー政権、メイジャー政権を経てブレア政権になったときに、第三の道という概念が提唱されたという話をしました。第三の道というコンセプトの中には、二つ重要な概念があります。一つはインクルージョン(包摂)で、もう一つは新しいシチズンシップ(市民性)という発想です。
 包摂とは何か。民主主義の基本は「打って一丸」ではなく「異者との共存」という意味での「多様なる参加」です。〈システム〉が〈生活世界〉を空洞化させて、我々が不安に晒されるようになればなるほど、我々は二元論的=排除的になります。いわば原理主義的=観念的になります。すなわち「観念的で、排除的」というネオコン(新保守)に近づきます。これに抗って、包摂的な社会を作るように、現実的に行動しなきゃいけません。
 それには、多様なものを目撃すると実存を脅かされる多様性フォビア(多様性恐怖症)を緩和することが必要です。多様性を楽しいと思う人間を増やすのです。これが「包摂」のコンセプト。ただしシャンタル・ムフがギデンズを批判するように、多様性を追求する人々が、多様性フォビアの人々を排除する二元論に陷ってはいけない。むしろ多様性フォビアの人々の不安を除去し、多様性を怖がらなくなるような、ルソー=ローティ的「感情教育」が必要です。
 新しいシチズンシップのほうは簡単です。「地域に根付きながら国境を超え、とはいえ国家を否定するのでなくうまく操縦する」ようなあり方です。別の角度から言えば、「経験を通じて自分たちに何が必要なのかを学び、かつ自分たちとは誰なのかの線引きを絶えず疑い続けるような、教条主義とは無縁なオープンマインドなあり方」です。
「包摂」と「新しいシチズンシップ」という二つの柱は、「保守でかつリベラル」であるようなあり方を、具体化するための戦略的な橋頭堡です。その意味で、「全ては教育だ」というブレアの言い方は、先ほど述べた「包摂主義の排除性」に鈍感だったというギデンズ的な錯誤を除けば、理念的に正しい目標でした。我々が耳を傾けるべきものがあります。
「保守でかつリベラル」を「包摂と新しいシチズンシップ」にブレイクダウンしてもまだ抽象的だという向きは、藤原さんの学校プログラムを見ればいい。極めて包摂主義的で、極めて地域主義的で、極めてオープンネットワーク志向で、極めて国家操縦的です。こうした理念的要素だけを並べると両立が疑わしいものが、どのように現実化できるかが分かります。マスターベーション右翼とは程遠い意味で、極めてパトリオティック(愛郷的=愛国的)です。
鈴木 和田中を見ていると、ほんとうに期待以上の成果が上がっています。たとえば、コミュニティー・スクールをいっしょに作っていくという経験は、大人にとっても大変に教育的で、そこで獲得した賢明さとソーシャル・ネットワークなどが、いまや防犯、防災、あるいは、介護、育児、医療などの多くの分野で、社会を構成する基盤になりつつあります。
 藤原さんの実践は、メディアがかなり取り上げるようになりましたが、その意味とか本質はまだまだ伝わっていません。この点は今後がんばっていきたいと思います。
 最後に、藤原さんが『新しい道徳』という本を出されるということですが、予告も含め、きょうのラスト・メッセージをお願いします。
藤原 僕はヨーロッパで2年半暮らして、帰国後にデビュー作の『処生術』を書きました。なぜヨーロッパに行ったかというと、いまから十数年前にメディア・ファクトリーという会社を創業したとき、これからは必ず成熟社会に入ると思ったので、そこではどんな社会システムがいちばん大事なのか、どんな社会システムが残るのかという、成熟社会の未来を知りたかったからです。帰るころには、教育と住宅と介護を中心とした医療制度が根底から変わらないと日本は豊かにならないという結論を持っていて、それを本に書きました。
 その翌年に宮台さんの『終わりなき日常を生きよ』の文庫版が刊行されて、久しぶりに会って意気投合。これからの成熟社会で、人びとがバラバラになっていくのをどうつなぎ止めていくかということについて、お互い取り組んでいこうという話をしたんです。
 そこへ、当時通産省にいた鈴木さんという、バラバラな個人をどうまとめるかにはネットワーク、それも若い人のネットワークしかない! という考えの人が現れて、3人が集まったわけです。
 その出会いから10年経つので、もう一度、いまお話ししたようなことも含めてきちんとまとめたいなと思いまして、12月に『新しい道徳』というすごくベタな書名で筑摩書房から刊行することになりました。ぜひご一読下さい。
鈴木 ありがとうございました。最後に宮台さん、何かラスト・メッセージを。
宮台 若い人たちに最後にお伝えしたいのは、我々がコミュニケーションする際に囚われるステレオタイプな先入観が、必ず二元論的形態をとることです。むろん人間が分別する動物である以上、二元論を完全に回避できません。二元論と非二元論という図式もまた二元論であることを思えば分かるでしょう。これはロジカルにはパラドクスを来しますが、時間的に展開すれば「二元論に陷っているだろう自らを永久に疑え」というメッセージになります。
 今日は宗教の話に軽くしか触れませんでしたが、アメリカは特殊な宗教的伝統ゆえに、二元論的です。それが必ずしも悪いというわけじゃない。問題の複雑さは昨今ブームのハリウッド発のドキュメンタリーを見ると分かります。とても二元論的なのです。アル・ゴアが主人公の『不都合な真実』にしても、『シッコ』などマイケル・ムーアの作品も、「本当に悪い奴はアイツじゃなくてコイツだ!」というフィンガーポインティングするタイプばかりでしょう。
 ヨーロッパの感受性から見ると、これらはドキュメンタリーというよりもプロパガンダです。せいぜいが政府やマスコミのプロパガンダに対するカウンタープロパガンダです。ところがヨーロッパの伝統ではドキュメンタリーはアートです。アートとは平穏無事な日常ゆえに頽落した自分を脅かすような衝撃に満ちたものを言います。二元論はプロパガンダであれカウンタープロパガンダであれ、勧善懲悪的で、大衆芸能的で、見る側にとって人畜無害です。
 でも、だからこそ政府やマスコミのプロパガンダに対抗する動きを効果的に組織できます。アメリカが振り子のようにスイングバックする国であるのも、政府や財界が推し進めるグローバル化に対抗するNGO運動を最も強烈に展開する国であるのも、アメリカが二元論に支配された国だからです。ただしそれらがマッチポンプになっていることを見逃してはいけません。
 非二元論的なヨーロッパのドキャメンタリーを代表するのが、オーストリア人が監督した『ダーウィンの悪夢』です。これもグローバル化批判ですが、『不都合な真実』とは全く違います。そこには「ブッシュとその周辺」のような「悪の大ボス」は登場しません。
 登場するのは、金でも物でもなくノウハウの提供こそ大切だと考える世界食糧計画(WFP)など国連職員であり、2000年のタンザニア飢饉の再来を防ぐには外貨を稼ぐしかないと考える国内の企業経営者であり、砂漠化による農産物収量低下の中で家族のために稼ごうとする労働者です。そこに、家族に安い白身魚を食べさせようとする日本の母親を加えてもかまいません。
 ところが彼らが「人々の幸いのための最善の選択」をすることが、巡り巡って地獄をもたらすのです。すなわち問題の地獄は、善意や悪意の問題ではなく、プラットフォームの問題なのです。でもヘーゲル=ルカーチ的に言えば、現行プラットフォームの共同利害を覆して別のプラットフォームに取り換えたときに、より大きな共同利害が得られるか否かは不確定です。それを恐れるのは正しいと言えそうですが、その結果、地獄のサイクルは温存されてしまう。
 これが、30年前にスーザン・ジョージが『なぜ世界の半分が飢えるのか』で指摘した「構造的貧困」メカニズムであり、その進化形としての「グローバル化」メカニズムです。昨今でいえば、年金運用の効率化のために石油や食糧に投資する怒濤のような流れがもたらす石油と食糧価格の高騰が挙げられるでしょう。こうした問題は「本当の悪者はコイツだ」いうフィンガーポインティングではカバーできません。しかもそうした指摘は、善意で行動する我々の実存を十分に脅かします。
 その意味で、今日ではますます単純な二元論が問題を孕みがちです。悪を憎む感情は重要ですが、その感情に基づく単純な二元論は悪を増幅させ、あるいは悪に餌を提供します。善意や悪意では超えられない問題をどう超えるかという問題意識を持つことも、非二元論的な保守リベラルの重要な条件です。そうしたことを踏まえた「包摂」と「新しいシチズンシップ」が生まれることを望みます。
鈴木 ありがとうございました。ぜひ子どもにも教えたいし、大人にも広げたい。さまざまなメッセージがあったと思います。 最後に私からも申し上げたいと思います。日本の道徳論議には、それをどういうふうに子どもたちに身につけさせるのかという方法論が、まったく欠如しています。僕たちは知恵を集めて、きちんと実践をしていきたいと考えていますので、できるだけ多くの人が、この輪に加わって頂くきっかけに今日がなればありがたいと思っています。
 みなさん、ほんとうに最後までおつきあい、どうもありがとうございました。

*本稿は、2007年9月19日に新宿紀伊國屋ホールで行われた、セミナーをもとにまとめたものです。

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