1945年8月の敗戦を迎えて、当時の知識人たちは、これからの日本はどうあるべきかをめぐって、さまざまに論じあった。その共通点は、日本人が自主的に物事を考えることが苦手な国民であり、付和雷同しがちな傾向があること、なにごともエリートにまかせて、その後についてゆく主体性のない国民だ、という認識であった。だからこそ、主体性を養うために教育を大切にして、自主独立の精神を養うべきだ、という結論となった。
以来、70年が経過した。日本人は一人ひとり、いかに主体的な精神の持ち主となり、自主的に物事を考えるようになったのか。結論は、明白である。70年前の決意など、どこへいったのか。いや、主体性という言葉自体がどこかに消えてしまったようではないか。
その主体性という課題を、私がひときわ強く意識しはじめたのは、マスコミに就職をしてからであった。「言論の自由」という言葉の虚しさを、イヤというほど味わった。さらに、大学に職を転じてからも、主体性を養う教育とはなにかをめぐって、自問自答をくり返した。
そうしたなかで、1996年に『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)を上梓した。執筆した当時は、「無宗教」という現象がどうして生じたのかについて、できるだけ客観的に叙述することを心がけて、「無宗教」の精神を積極的に批判することは控えた。そのためか、読者の多くは、「無宗教」であってもよいのだ、という反応を示し、私自身はいささかとまどってきた。というのも、私が期待していたのは、「無宗教」が生まれてくる歴史的・民俗的背景を知ることによって、「無宗教」の限界を知り、「無宗教」を超える道を読者諸氏が見出してくださることであったからだ。
版を重ねているが、状況は今も変わらない。それどころか、世間では「無宗教」であることにさえも、無関心な風潮が強まっている。ましてや、「宗教」という言葉に積極的な意義を見出す人はごく少数であり、宗教はほとんど侮蔑の言葉であり、愚かな人間が陥る迷信という意味になっている。
このような風潮のなかで、「天皇」に対する宗教的崇拝だけは、敗戦後から現代にいたるまで一貫して衰えることがない。とくに最近では、海外での慰霊行事や、積極的な被災地慰問、それに「生前退位」の意志表明などの影響もあってか、一段と天皇への関心と尊崇の念が高まっている。
「無宗教」と「天皇崇拝」とは、一見、なんの関係もないように見えるが、本書で詳述するように密接な関係がある。結論めくことをいえば、「無宗教」も「天皇崇拝」も、日本の「自然宗教」に根をもっているのである。
「自然宗教」は、自然発生的な宗教意識、という学術用語であり、いわゆる教祖や教団、経典や聖典、信者によって構成されている「創唱宗教」とは異なる。そして、日本人の多くが「無宗教」であるということは、「創唱宗教」風にいえば、「自然宗教」の「信者」なのである。ただし、「信者」といっても本人にはその自覚はない。「自然宗教」の中身を聞いてはじめて、自分が「自然宗教」の信奉者であることに気づくのである。それほどに「自然宗教」は、日本人にとっては空気のような存在だといってよいだろう。
このように、意識することがむつかしい「自然宗教」の雰囲気に漬かっていると、なにごとにせよ、主体的であろうとすることもまたむつかしくなりがちではないだろうか。私が「無宗教」を問題にするのは、「無宗教」でよいとする精神には、主体性が見出せないからなのである。主体性については本書で論じるが、要するに、自分の頭で考え抜いて、自分の発言や行動に責任をもつということである。
だが、現実には、そうした生き方のなんとむつかしいことか。主体性をもって生きようとすればするほど、他人や組織との摩擦が強くなるばかりではないか。それならばいっそのこと、主体的であるよりも、はじめから多数と同調する生き方に身を任せる方が楽ではないか。しかし、同調だけの人生のみじめさも見えている。どうしたらよいのか。
私見だが、日本社会のなかで主体性をもって生きるには、やはり、どうしても「無宗教」的精神を一度徹底的に論破し、「無宗教」的精神に代わる普遍的な宗教精神と向き合う必要があるのではないか。
本書の書名にある「日本精神史」の「精神」とは、そうした「無宗教」的精神を相対化し、あるいは否定して、新たな主体性の根拠を提示できる普遍的宗教を意味する。ただし、本書で明らかにするように、日本の場合、現実にはそうした普遍的宗教は存在しないといってもよい。なぜならば、かつて日本にも普遍宗教が存在したが、その普遍性が維持されたのは、わずか一世紀の間にしか過ぎず、その後は、「自然宗教」の反撃に遇って普遍性を喪失して、今にその形骸をとどめているだけであるからだ。
それでは、私がめざす主体性の確立は、結局、不可能となるのか。そうではない。本書が力をいれて記しているのは、普遍宗教がその普遍性を喪失してゆく過程である。なぜ、そのような過程を重視するのか。それは、そのことによって、普遍性の実現を阻害する要因が明らかになるからである。阻害要因が明らかになれば、その克服の道も見えるはずではないか。
私がいいたいことは、「無宗教」という主体性を阻害しがちな精神の克服のためには、普遍的と称する既成宗教を無批判に信奉するのではなく、まず、普遍宗教の持続を妨げてきた過去の諸要因と向きあってゆくことが肝要ではないか、ということなのである。それが、本書の試みである。読者諸氏は、どのような感慨や意見をもたれるであろうか。乞う、批判を。