服を脱ぎ、裸を見せ、さわらせる。
誰かが自分の身体に針を刺し、器具を取り付ける。
自分だけの秘密をつぶさに話す。
私たちの日常において、こんなことがあたりまえのようにできる相手、もしくは、こんなことをされても平気な相手はいるだろうか。
初対面の人相手に、このようなことができる人はまずいないだろう。初対面の人相手に、自分の秘密を赤裸々に話し、裸までみせたとしたらそれは新手の露出狂である。お願いしてもさわってなどもらえず、警察に通報されるのがオチだ。
身体を見せたり、秘密を話したりすることができるようになるには、お互いが相手のことをよく知り、さらに思いあっていることが前提である。したがって、そうでない相手に、自分の身体や心のうちを開示すると、私たちは変な感じを覚える。身体をさわらせたり、自分の心のうちを見せたりするには親密さが必要だからだ。
しかし、このようなことが、まったくの第三者相手にふつうに行われる場所が、私たちの日常に一つある。
それは医療現場だ。
医療現場で私たちは、自分たちの当たり前をこともなげに、しかもことごとく覆す。
たいしたためらいもなく、服を脱ぎ、身体をさわらせる。よくわからない吸盤がいくつも身体に取り付けられても(心電図のことである)、静かにベッドに寝つづける。針が刺され、得体のしれない液体が身体に注入されても(注射のことである)黙ってその痛みに耐える。誰にも話したことのない秘密をつぶさに打ち明ける(心理療法のことである)。
さらに面白いことに、このやり取りはひどく一方的である。自分の身体を見せたり、さわらせたり、プライベートを話したりする相手(医療者のことである)が、相手にさせたことと同じだけ身体を見せたり、さわらせたり、プライベートを話したりすることは決してない。
身体を晒したり、さわらせたり、心を打ち明けたりという関係は、親密さの上に初めて成り立つ。そして、親密さとは、互いの考えや感情を開示しあうという、双方向のやり取りが、時間をかけて継続されることではじめて培われるものであろう。
ところが、医療現場においてそのようなあたりまえは一切通用しない。ここでは、そのような親密性は一切培われないまま、私たちは一方的に自分を開示し、そのことに対し―たとえ二時間待ったとして―深々と頭を下げてお礼をいい、お金まで払い(診察代のことである)、さらには、そこには政府の補助(医療保険のことである)までついてくる。
親密な関係でしか許されないことが許され、しかもそのやり取りが常に一方通行という不思議な空間。それが医療現場だ。
この本の目的は、そんな不思議な空間ではたらく医療現場の人々がこの空間の中で何を感じ、何を考え、どう生活しているのかを描くことである。
さて私の専門は文化人類学である。
文化人類学は平たくいうと、世界にあるさまざまな文化を研究する学問である。一般の人々が抱きがちなイメージは、アフリカの奥地に入り込み、そこに住む「未開の人々」と生活をともにし、大量の虫に襲われるとか、不思議な食べ物を食べてお腹が痛くなってもだえ苦しむといった、さまざまな苦難を乗り越えながら、その人たちの生活の様子を描くといったものだ(ちなみに私たち文化人類学者は「未開の人」とか「原始人」といった言葉は安易に使わない)。
したがって、私の研究フィールドの一つが医療現場というと「そんなところがフィールドになるのか」と驚かれることもある。
確かに、最新の技術がそろい、専門知識を学んだ人々が集う、医療現場はいわゆる「未開」とは程遠いように思える。しかし、上述したように、医療現場は、日常生活ではありえないようなことが次々と許される不思議な空間なのである。
そんな不思議な空間を日常とする医療者はそこで何を見て、何を考えて、どうすごしているのだろう?
幸い私は、医療をフィールドとする文化人類学者として、医療者のさまざまな声を聞く場面に恵まれた。あらゆるアドバイスに対して首を振り続ける患者が診察室を去った後、「一生懸命考えた方法を全く受け入れてもらえないとこちらも傷つく」とぽつりとつぶやいた内科医。認知症の親の入院中のケアがなっていないと息子にどなられ続け、「自分たちの努力はなんのためにあるのだろう」とやりきれない思いを吐露した看護師など、医療現場には患者の知らない声が存在する。
私たちは具合が悪くなると、自分のことに夢中になって、医療者も私たちと同じ人であるという事実を忘れてしまいがちである。そして医療者自身も患者からそのような人として見られることを必ずしも望んではいないだろう。
しかしやはり医療者も人なのである。
ここでは診察室ではなかなか超えられない医療者と患者という境界を取り払い、医療者をひととして見てみよう。
医療者という役割の後ろ側にはいったいどんなひとがいるのだろうか。