ちくまプリマー新書

本と向きあう白い生地

6月刊行のちくまプリマー新書『高校図書館デイズ』(成田康子著)について、ノンフィクション作家の角幡唯介さんに解説をいただきました。

 高校生の頃、図書館など通ったことがなかった。通おうという発想すらなかったと思う。当時から読書はきらいではなかったし、最近では半分仕事みたいなものなのでかなりの量を読む。しかし、こんなふうに公に感想めいたことを書くようになった現在でさえ、本を読むために図書館に足をはこぶことはまったくない。自分は図書館という空間が持つ、あのちょっと寺院に近いような、いささか畏まった静謐感が苦手なのだろうか。寝っ転がったり、ケーキを食ったり、放屁をしたり、机に足を放り出したりして本を読むのが私は好きなのであって、もしかしたら読書が好きなのではなく、読書しながらのケーキや放屁が好きなのではないかとさえ思うわけである。

 とまあ、それは半分冗談だが、しかしこの本を読んだときに、もしかしたら自分は図書館に通わなかったことで新しい可能性の扉を拓く重要な機会を逸していたのではないかと、すこし後悔したのは事実だ。本書は北海道の札幌南高校の図書館で司書をつとめる著者と、その図書館をおとずれる十三人の高校生の本をめぐる語らいを結実させたものだ。音楽の調べのような著者の流麗な文章にのって、本と出会ったときの高校生たちのみずみずしい驚きや発見があふれ出してくるのを読みながら、私はこの生徒たちにちょっとした羨望をおぼえた。

 今の私は自分の特異な経験に基づき、独自の世界を築きあげすぎてしまったせいで、本をあるがままに読むことができていない。私という人間のベースはすでに固まりかかっており、可塑性が少なくなってきている。偏屈になってきていると言ってもいい。どうしても本を自分の世界に引きつけ、過去に獲得した言葉を武器に本を取り込もうとしてしまう。しかし、この高校生たちはまったく逆である。彼らの人格はまだ形成途上で、透明だ。それだけに、本はその本のあるがままの姿で高校生たちの前に登場し、そして高校生はその本をあるがままの姿で受け入れることができている。そこにあるのは偏狭な解釈や打算的な思惑ではなく、何かと何かがぶつかったときの純然たる響きあいだ。彼らの言葉から聞こえてくる琴の音のような美しい旋律に、私は時折ハッとした。本をあるがままに受け入れることで彼らの内面に新しい領域が開け、そこにまた別の本が登場し、その言葉にごく自然に共鳴し、一枚のタペストリーが編まれるように新しい世界ができあがっていく。それは人生のかぎられた期間にだけ可能な奇跡のような瞬間である。

 たとえば文字に異様な関心をよせる生徒がいる。小学校時代から国語辞典を読みこみ、すこし成長して旅をはじめるようになってからも、看板や標識の漢字の書体に目が行ってしまい、旅は文字をテーマにしたフィールドワークのようになっていく。多少変わってはいるが、素晴らしくオリジナルな読書と旅だと思う。あるいは本を読むことで、自分の言葉で物語を書きはじめる生徒もいる。小説を読み、登場人物の心理の襞にはいり込み、共感し、それが新しい言葉となって現実世界を別の視点から見つめるようになっていく。こんなに自由な読書をいつからできなくなったのだろうかと、つい己の身を振りかえった。

 図書館というのはある種のアジールみたいなものだ。この生徒たちの率直な言葉が、図書館以外の場所で語られ得たとは考えにくい。教室という公的な場や、友達同士の遊びや家庭などの私的な場からこぼれ落ちる壊れやすい言葉を、著者は司書という立場でかろうじて救い出している。たしかに本を読む人は多い。しかし多くは実用的な情報を求めているだけで、本によって独自の世界を発見できる人は意外と少ない。目に見えるこの現実世界の裏側にひろがる、もうひとつの深い世界に連れて行ってくれる読書の作用に気づけた人は、考えてみれば幸運だ。図書館という世俗と断絶したあの静謐な空間は、じつは人間をその深い世界に誘う入り口として機能しており、そのような独特な小宇宙だったからこそ、高校生たちは素直に本と向き合う自分の内面を見つめることができたのかもしれない。

 本は五感で読むものであり、空間の作用は決して無視できない。もし高校生のときに図書館に通う習慣があったなら、自分ももう少しみずみずしい感覚で自分の内面を見つめることができたのではないか。そんなことを考えると、なんだか図書館に行きたくなってきた。まだ間に合うのではないか。そんな若々しい気持ちにさせてくれる作品である。

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