本が読まれない、これでは困るというので「文字・活字文化振興法」という法律ができた。これだけ教育の普及した社会として名誉なことではない。なんでもとにかく読めばよいというのだから恥しい話である。
気軽に、読む読むというが、いまの人は読むとはどういうことかなど一度も考えずに一生を終ることができる。ただ広く多く読めばよいというので、読書家も質を問うことはもともと少かった。ものを読むことを指すことばすら確立していない。読み方、読書、読み、などいずれも「読み」の全域をあらわさないのである。
戦前の日本人はロクにものを読まなかった。農村などでは、本らしい本はないのが普通で、新聞をとっている家は特別であった。その新聞にしても読むのは連載小説だけ。あとは社会面の記事をながめると終りだった。長年親しんでいる新聞の社説がどこにあるか知る人はすくない。社説を読む読者はそれこそ例外的であった。こどもは雑誌があったから、大人よりよく読んだが、興味本位で遊びの延長のようなものだから、読書をしていたわけではない。
学校では“読み方”を教えたけれども、本当に読むことを教育したわけではない。ただ文字が“読め”ればよしとした。もちろん音読から入るが、やがていつとはなしに黙読へ移る。その移行はいつ、どのようにして行なわれるか、それをはっきり自覚している国語教師はいなかったのだから、ノンキなもので、こどものほとんどが知的発達の方途を失ない、一生の不幸を背負うことになる。
読みはいってみれば二階建ての構造である。一階は、知っていることを内容とした文章を読む。はじめは音読が基本で、声にできれば読めたことになる。意味をほとんど考えないでわかる読みである。
二階では、未知なことがらについて書かれている文章を読む。わからないことが多くて意味をとるのに多少とも努力を要する。いくら一階の読みに習熟しても、そのまま二階へ通じるというわけにはいかない。階下から二階へ上るには階段をのぼる必要がある。
この階下の読みを私はアルファー読みと名づけた。二階はベーター読みである。実際問題としてアルファー読みからベーター読みへの展開はきわめて困難で、うっかりしなくても、失敗、転落することになる。これまでの方法は、一階の読みから二階の読みへ達する階段として文学作品を用いた。アルファー、ベーターのどちらでも読めるからである。ところが、文学好きな教師の多い学校では、ベーター読みを忘れて文学的教材に埋没することがきわめて多かった。文学少年・少女は育ったが、知的なベーター読みとは無縁という人間ばかり多くなる。戦後、この文学的国語教育への反省がすこしばかり行なわれたけれども、なお、ベーター読みへの方法論にはならなかった。
この問題に悩むのは何もわが国だけのことではなく、世界の各国ともこれをもてあましているのが実情である。アルファー読みは認知作用によって行なわれるが、ベーター読みには洞察が求められる。一から他への転換はたいへん難しい。
その点で注目すべきが、かつて漢学で行なわれた素読(そどく)である。まるで読むことのできないこどもに中国の古典をいきなり“読ませる”。意味は教えずにただ音読する。“論語読みの論語知らず”になるが、くりかえしているとおのずから本文を覚える。そのような方法で未知を読む力をつけたのが漢学である。
泳げないものを海へ投げ出すような素読の方法は、学習者の発達段階に沿って教えていく近代教育では問題にならないけれども、それに対応する読み方の開発は緊要な課題である。アルファー読みからベーター読みに切り替えることができれば、われわれの知的活動は大きく拡大、進化するという考えによって、読みの問題を考えたのが、『「読み」の整理学』である。