道を歩いていると目の不自由な学生がやってくる。近くになると、
「外山先生、こんにちは」
と言うから、こちらはびっくり。どうしてわかるのか、きいてみると、前々年、私の英語の授業に出ていたそうで、
「足音で先生とわかりました」
とこともなげに言うから、もう一度びっくり、その聴覚のするどさと記憶力に舌を巻いた。以後、ときどき思い出しては感心を新たにする。こちらは恥しいほど覚えが悪いのである。
何年も教えた学生の名前すら覚えられないし、顔も見分けられない。
小さなクラスの担任になった。卒業まで持ち上りである。三年次になったクラスの学生と街で出会った。したしそうにあいさつする学生の顔はかすかに見覚えがあるが、名前が出てこない。あてずっぽうに「○○くん」と言ったら、学生は憤然とした調子で、
「△△です。とり違えるなんて、ひどいですよ」
と言う。悪かった、私の頭がいけないのである。クラスといっても十三名である。三年も担任をしていて、名前も覚えてもらえない学生の気持を思って大いに反省したが、急に頭が変わるわけがない。同じような失敗を何度もくり返した。教師はまず学生、生徒の名前を覚えなくてはいけない。理屈としてそう考えているだけに、わが記憶力の劣悪なのがコンプレックスになった。
そんな人間が、忘れたってすぐれた頭脳はあるということを知った。
教師の片手間に、雑誌「英語青年」を編集していたときのことである。西脇順三郎先生のお宅へ、執筆依頼に伺った。あっさり承諾して下さった先生が、
「これから詩人の会へ行きます。いっしょに出ましょう」
とおっしゃる。芝白金のお宅の近くでタクシーを拾った。行き先をきく運転手に、先生は、はなはだ心細いことをおっしゃる。
「たぶん、上野だったような気がする。貧乏な詩人の会だから、たいしたところではないでしょう。とにかく精養軒へ行ってみてください」
着いてきいてみるが、そんな会は知らないと言われ、その足で銀座の三笠会館へ向った。クルマの少ない時代だったから、あっというまに銀座へ着いたが、やはり会はなかった。先生、すこしも騒がず、
「帰るしかないですね」
と言われる。お宅までお送りしてホッとした。さすがに複雑な思いであったが、時がたつにつれて、あれくらい俗事から超然としていられるのはやはり才能というべきだろう、と考えるようになった。浮世離れして、どんどんものを忘れるからこそ、ああいう独創的な詩が生まれるのかもしれない。忘却もりっぱな才能であると大げさに考えたりした。
英語にabsent-minded(アブセント・マインディッド「上の空の」)ということばがあって、学者をからかい半分で呼ぶときに使われる。「忘れっぽい」という意味を含んでいる。ものを考えている人間は「よく忘れる」頭をもっているという洞察を裏付けにしているのかもしれない。
ぼんやり忘れるのはいけないことではないと考えるようになって、どれくらい経ったかわからないが、あるとき、忘却は思考にとって欠くことのできないはたらきをしているのだ、というドグマを心に温めるようになった。多少、自分の記憶の貧弱さの弁護めいたところがないでもないので、ずっとひそかに考えるにとどまっていた。
年をとると何でも忘れてしまうといわれるが、その年寄りになって、都合の悪いところは棚に上げ、放念、忘却のアポロギアを本気になって考えた。考えて忘れるのではなく、忘れた頭で考えるのが順序であると信じられるようになったところで、『忘却の整理学』を書いた。