小津映画はストーリーやテーマより、なんだか好ましい頑固な「美的秩序の世界」として中野翠さんの前に現われた。
「見ている時はただもう気持よく、すんなりと受け容れてしまうが、よく考えるとヘンなのだ。とても不自然。異様と言ってもいいくらい」
土手下に小さな建売住宅が並んでいる(「お早よう」一九五九年)。そこに住む四人の主婦が全員普段きものを着ている。もう洋装が主流だったのにである。しかもそのきものが縞と格子のいずれかで趣味がいい。現実には「まったく同じ趣味の主婦ばかり隣り合って暮らすなんて、あり得ない。絶対に不自然だ。完璧、反リアリズム」
だからいけないなんていう話ではない。そう思いながら中野さんは「よそゆきではなく、ふだんのきもの姿のオンパレードにわくわくしてしまう」。
しかし、やっぱり「ヘンだ」と、たとえば「彼岸花」(一九五八年)について「異様なのは女たちの帯だ」と中野さんは考えてしまう。「山本富士子も浪花千栄子も田中絹代も、チラリと出て来る料理屋のおかみ・高橋とよやバーの女・桜むつ子に至るまで、全員が無地の帯をしめているのだ」
登場人物それぞれの「生活背景だの性格だの心理だのを描写して行くという配慮は」ほとんどなく「まるで、ある一人の衣装箪笥から飛び出して来たようなもの」なのだ。
それはリアリズム近代劇のスタイルとはくっきりちがうものだ。しかし、でもどうしてその世界にこんなに魅力があるのだろうと、結局のところ中野さんは小津映画の唐紙や電燈のカサから丼から湯呑みに至るまで「ホレボレ」してしまう。この「ホレボレ」と知性の「ほどのいい」まざり合いが、いつもながら中野さんの魅力で、読んでいると「ヘンだ」「異様だ」といいながら頑固な中年男にまいって行く知的な女性の告白を聞いているような、やる瀬ないような気持になってくる(というのは、私の異様かもしれないが)。
小津安二郎は、「小津ごのみ」に徹した。「自分という小さな一個人の好悪の感覚を一途に掘りさげて行けば、絶対に何か大きなもの、深いもの、普遍的なものにつながるはずだ—— 。そういう確信があったとしか思えない」
鎌倉文化人にカブレただの、民藝趣味だの、そんな呑気は少し目を凝らせば小津映画のどこにもない。役者の演技も邪魔、なまな現実も立入らせまいとしてつくり上げた世界は、いかに「キレイゴト」に見えようと、激しい執心なくしてはあり得ない。「人の心の、人の世の、ダークサイドにばかり真実がひそんでいるのではない、キレイゴトの中の真実を描くほうが案外難しいんじゃないか」小津の確信は、そういうものでもあったのではないか、と中野さんはいう。
もっともっと中野さんは語る。溢れるように、小津作品について、あっちからもこっちからも語って行く。ほめてばかりはいない。「小津もやっぱり昔の男の人なんだなあ」とがっかりしたりもする。そういうところはちょっといじらしい。好きだからといって万事よく見えてしまうわけにはいかない。小津も頑固だが、中野さんも自分の好悪に確信を抱いている。しかし、その確信に偏狭なところがなく、私は大半の感想に説得され共感した。原節子の演ずる「晩春」「麦秋」の娘役に、いくらか「くすぐったく思ったのはその古風さに対してではなく、実は聡明さに対してだったかもしれない。けれど、若いということはもっとバカなことなのだ」こういう短い感想がとてもいい。「東京物語」や「晩春」のあるシーンについての作家や映画監督の解釈に「ビックリ仰天した」という。私もかつて「ビックリ仰天」していたので、大いにうなずいた。
小津映画についての大切な一冊が生まれたと思う。
その上この本には、おまけがある。中野さんの絵入りなのである。これがさらりと女優さんを描いてほのかな似顔である。似すぎると品がない。そのあたりのほどが、いかにも「中野ごのみ」なのである。