先日、困難に陥った若者を支援する組織の集まりに参加する機会があった。そこで語られていたことの中で印象に残ったのは、最近の若い人の中に、喜びも希望もなく、かといって世の中への反発もない、まったくの「無」のような存在が増えているという発言だ。「無」のままでも教育の出口までは何とか持ちこたえられるが、その先の社会に出るに当たって、どうしていいのかわからなくなってしまうという。そのような現場の印象を裏付けるような調査結果も私は目にしていたため、暗鬱な思いが深まった。
このような若者に対して、情けない、だらしないなどの非難の言葉を投げつけて終わりにすることは容易い。しかし、それでよいわけがない。そのような若者が生み出されている社会的な背景や原因を明らかにし、それらが含む諸問題に対処してゆかない限り、「無」の若者はこれからもぞくぞくと現れてくる。しかも、「無」の若者はごく例外的な存在なのではなく、若者全体を取り囲む社会環境、彼らが直面する状況が内包している問題を、凝縮した形で体現しているだけなのだ。
今の日本社会は、一九六〇年代から九〇年代初頭にかけて形成された独特の社会構造を、その後の諸条件の変化に合わせて柔軟に修正することができず、閉塞状態を迎えている。社会が抱える諸問題を数え上げればきりがないが、こと若者に焦点を当てるならば、教育と仕事との接続点に巨大な裂け目が広がっていることが最大の問題である。
これまでの日本における教育と仕事との接続は、①新規学卒一括採用慣行によって大半の若者が教育機関の卒業とほぼ同時に安定した正社員に移行していたこと、②それと表裏一体の現象として、教育内容は仕事における具体的な有効性としての「職業的意義」を求められずにすんできたこと、を特徴としていた。それらの背景には、持続的な経済成長を前提とした新規労働力需要が存在していた。しかし、九〇年代以降の経済環境の変化により、①に該当しない若者が膨大に生まれており、②は大きな変化のないまま存続している。①については、著しく増加した非正社員が不安定で低賃金の働き方を強いられていることはもちろん、正社員であっても従来よりはるかに苛烈で過重な労働負荷と処遇の劣悪化が進んでいる。②については、若者が高い「人間力」(コミュニケーション能力や意欲など)を身につけていることへの雇う側からの要請は強まっているが、そうした人間像の要請自体が過大で実現困難なものであり、実際に教育側はそうした要請に成功裏に応じることができていない。
必要なのは、教育機関にとってより実現可能な形で「教育の職業的意義」を高め、若者に仕事の世界への〈適応〉力と〈抵抗〉力を与えて送り出すこと、そして「教育の職業的意義」が尊重されるような仕事のあり方を、現状へのオルタナティブとして作り上げていくことである。「人間力」という要請が、その抽象性や無限定性のゆえに実現可能性が低いものとなっているからには、実現可能性を高めるためには抽象度の水準を下げ一定の限定性を加えることが不可欠である。その際に鍵となるのが「柔軟な専門性」という考え方である。教育と仕事を一定の分野や範囲の輪郭をもつ「専門性」で結びつけつつ、隣接分野やより広い範囲への柔軟な展開の可能性を開いておくというのが「柔軟な専門性」である。言い換えれば、若者が「柔らかい殻」により身を守りつつ、脱皮と成長を遂げることができるよう、教育課程と職業キャリアを連続的なものとして構築するということが、教育と仕事の巨大な溝を埋めるために求められているのだ。
空疎なスローガンでも、冷酷な選別と使い捨てでもない、一定の堅牢さをもった橋を教育と仕事の間にかけたい。それによって、「無」の若者を生み出すことなく、彼らを広い社会にきちんと責任をもって導きたい。それが、『教育の職業的意義』という本に込めた私の思いである。