大学二年生のときから大学院を博士課程二年で中退するまでの七年間、神田神保町に家庭教師として週二回通った。学生にとって、実に贅沢な環境だった。通い始めてほどなく、日本文学専門の日本書房から独立して西秋書店が開店した。あるとき、棚の前で近代文学のやや高価な研究書を買おうか買うまいか迷いに迷って、手に取ったり棚に差したりを繰り返していたら、オヤジさんが「それ、安くしておくよ」と声をかけてくれた。それがきっかけで通い詰めるようになったら、オヤジさんは僕の通っていた成城大学の卒業生だとわかった。オヤジさんも後輩と思ってくれて、ずいぶん親切にしてもらった。
学部時代は、家庭教師のアルバイト代と二種類の奨学金で毎月六万四千円の収入があって、そのうちほぼ四万円を本代に使うと決めていた。大学院に進学してからは奨学金の額が劇的に増えたので、毎月の収入は一〇万円を超えるようになって、本代も七万円ほどになった。成城大学には生協がないので、本を一割引で買うところがない。そこでオヤジさんは新刊本を発注してくれて、一割引で売ってくれた。いま思えば書類の作成などずいぶん面倒だったに違いないが、厭な顔ひとつしないでずっと続けてくれた。
新刊の哲学書ばかり注文するので、「漱石をやるなら、これを買っておかなくちゃ」などとお説教されたこともあった。そのお説教を一五分ぐらい聞くと、ご褒美に安くしてくれるのだった。あるときは、ずいぶん高くなっていた漱石の研究書が二冊手に入ったからと、ちょっと状態の悪い方を「こっちを安くしてあげるよ、綺麗な方で儲けるからいいんだよ」と、ほぼ半値にしてくれたこともある。僕は西秋書店のオヤジさんに育てられた部分が結構あると思っている。
一九七九年の九月のある日、いつものように西秋書店に寄ると『明治文學全集』の既刊分の揃いがでていた。大学院修士二年生の僕には、絶対に必要な全集だった。オヤジさんも「それ、もっていかない?」と声をかけてくれた。ただ、二〇万円を一度には払えなかった。そこで思い切って「毎月五万円の月賦にしてくれませんか」と頼んでみた。そうしたら、「いいよ」と即答。僕は二〇のマスのある、ラジオ体操参加票みたいなカードを手書きで作った。西秋書店に寄るたびに支払った分のハンをもらって、その年の終わりまでに約束通りすべて払い終わった。家に『明治文學全集』が揃ったときの嬉しさは、いまも忘れられない。
もちろんと言うべきか、僕にこの高級な文学全集が使いこなせるわけはなかった。正直に告白すると、収録されている作者では知らない名前の方が知っている名前よりはるかに多かった。それでも、とにかく全巻手にとってぱらぱら拾い読みをしていった。『日本近代文学大事典』を月賦で買ったときも、喜びのあまり全ページ読破して少しも頭に残らない「愚挙」をしでかしたが、このときもそれと大差なかった。それでも、漱石に一巻しか割り当てられていなかったので、これが「見識」というものかと畏怖の念を抱く程度にはなっていた。一九八九年には大変な時間と労力をかけた『總索引』が刊行されて、明治期の言説空間をいまに伝えるこの全集の価値はますます高まった。これは、たとえば様々な表記の「ダーウィン」がまとめてある大変便利な索引だ。
ある研究者が明治文学論を刊行して話題になったことがある。その時、明治文学研究一筋の別の研究者が「あれは、『明治文學全集』止まりだ」と言ったという話を伝え聞いた。現在では復刻も多いし、国会図書館に近代デジタルライブラリーもあるし、むしろ資料の多さに研究者が振りまわされている嫌いさえあるが、その頃はまだ明治期の資料は手に入りにくかった。それで、僕は思った。「『明治文學全集』だけでも一流の研究書は書けるものなのだ」と。資料派ではない僕には、いまでも『明治文學全集』はまずはじめに参照する全集である。