ちくま文庫

著者の「文庫版あとがき」、あえてこの場に
天童荒太著『包帯クラブ』

 自己責任。国家が納税者に対する責任を放棄したに等しい言葉を、そのまま用いて、インターネットによるバッシングがあふれたのがほぼ九年前、新書版の『包帯クラブ』を執筆中の時期だった(このおり、人質となっていた三人は幸い帰国できたが、のちに一人の青年が助けられることなく命を失ったことを、その青年の名前とともに、私は忘れないでいたい)。
 当時、拙著に関するテレビ取材で、様々な話のあと、このバッシングの原因をどう考えるか問われた。ネットの発信者に日常的な鬱屈や不満の蓄積があるのは予想できるが、さらにその底に、各人が処理しきれていない傷を抱えていることに由来する面があると思う、と答えた。ささやかでも当人には意外に心の負担となっている傷、思い返すと胸が騒ぎ、髪をかきむしりたくなるような痛みの経験。(昨今のヘイトスピーチにも同様の感懐をもつが)検証できるものではなく、テレビでも、放送時間の都合か、的外れと思われたか、放送はされなかった。
 若い読者へ向けて新たに刊行されるプリマー新書に、当時筑摩書房に在籍されていた松田哲夫さんから随筆を依頼された私は、〈若い心〉に向けた物語を書きたいと申し出た。嘘から出たまこと、嘘を通して真実の一端を見いだし、読者に差し出すという一点に、自分の力の尽くしどころはあると信じてのことだ。
 そうして書き上げた物語を、刊行直前に読み直し、あっ、と思った。物語が、記述の仕方により、ある種の試験紙を隠し持つことに気づいたからだ。試験紙に現れるのは、或る人たちの秘された傷。包帯クラブは、人々の心の傷、ささいで、誰もが経験しそうな傷にも、それを受けた場所に包帯を巻く。対して、「包帯を巻くくらいで何が変わるのか」「そんな傷、放っておきゃ治るだろ」という反応があるのも当然で、私は作品中に、クラブの活動に反発する人物を登場させていた。
 けれど、作中のこの優等生的な人物と似て、子ども時代に成功や好成績を強く求められ、それを傷とも思わず、歯を食いしばって人生を切り開き、一つの社会的成果を挙げたと信じている人は、(同じ言葉を述べる登場人物がいても)この物語の深部に入る手前で反発を抑えられなくなる場合があるだろう、と思った。「自分は頑張った、なのに、おまえたちはつまらない傷でうじうじとなんだ……」という苛立ち。小さなうずき。
 私が物語を通して見いだしたかったのは、そうした言葉ではおおいきれない「何か」だった。小さな傷は、本当に放っておけば治るのか。取るに足りないと思われるから誰にも話さずにいる傷で、いまも眠れない想いをしている人はいないか。そうしたささやかな傷が、自分や他人の人生を、ときには傷つけ、ときには大きく歪めてしまうこともあるのではないか。
 包帯を巻く、というのは、「それ」が傷であることを認める、認めてあげるということで、手当というより、認識の問題である。意識化することを避けつづけていた或る経験を、傷であった、と自覚することで、対処の仕方も見つかる。
 ただ意図しなかったこととはいえ、こうした反応を引き出しかねない手触りを残してしまったことに、私は悔いを感じた。
 今回、あらためて〈若い心〉に読んでもらおうと文庫化の話が持ち上がった際、感想や意見を寄せて下さった読者の声を反映したいと思った。小学六年生の女の子は、包帯を巻いたブランコの絵を描いてくれた。大人からの便りも少なくなかった。子ども時代の傷をいまも抱えて生きている大人のなんと多いことか。なかには質問や、説明を願うような声もあり、読者との対話が成立しうるような手直しを心がけた。
 否定的な感想はこの文庫版に対してもあるだろう。ただ、感情的な反発を引き出してしまう手触りは、できるだけなくすように努めた。なので安心して、と言うのはおかしいが、読んでいただけたらうれしい。この拙文の、妙なタイトルの意味も、文庫を開いてもらえれば理解していただけるだろう。
 読者からは続編を求める声も頂戴している。いまもって叶えられずにいることが心苦しい。自分にも、また読者にとっても、これがよき助走になればと願っている。

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