単行本

私的唯仏論
『つぎはぎ仏教入門』

 聖書を初めて読んだのは、高校生の時であった。常識的に抱いていたキリスト教のイメージが大きく覆されて新鮮だった。宗教改革の時に「聖書に還れ」という声が上がった意味も分かった。聖書こそキリスト教の根本教典なのだし、ここに描かれたイエス・キリストの姿こそ、キリスト者なら学び従うべきものである。
 といって、キリスト者になる気の全くない私は、今度は同じように仏教の根本教典も読んでみようと思ったのだが、はたと困った。仏教においては、キリスト教における聖書のような根本教典がないのである。各宗派の依拠する経典はあるのだが、仏教そのものの根本教典はない。宗派同士で議論や争いが起きた時、ここに還れと指し示すべき根本教典がないのだ。だいたい、宗祖釈迦の言行が記された教典が見当らない。そういった教典は存在しているはずなのだが、お寺の坊さんたちの唱えるお経はそれとはちがう。イエスの歴史的実在を疑う研究はくりかえし現れるのに、釈迦の歴史的実在を疑う研究は一つとしてない。そうでありながら、仏教では、確実に実在した宗祖釈迦の言行を明らかにしたがらないのである。
 どうもおかしな話だと思った。
 大学時代には、中村元編『原始仏典』を読み、その後数年して増谷文雄編『阿含経典』(全六巻)を読んだ。そして、釈迦が説いた言葉に最も近い仏典がこれだと知った。一九八〇年代に入ると、阿含宗という新興宗教が派手な宣伝とともに登場するが、これが阿含経典とは何の関係がないことも、既に私には分かっていた。だって、釈迦が山のように積んだ護摩木を燃やして呪文を唱えたりするはずがないんだもの。
 阿含経典を一切読まない阿含宗では、護摩木の火の中にさまざまな仏様が姿を現すと言う。これまたおかしな話で、仏様とは宗祖である仏陀釈迦以外にあるはずがないのである。
 東南アジアの小乗仏教では、お経といえば基本的に阿含経典である。そして、仏様とは仏陀釈迦だけである。
 ああ、そうだ。仏教は「唯仏論」だったんだ。灌仏会(花祭)の釈迦像も「天上天下唯我独尊」と言っているではないか。釈迦だけが「仏」なのだ。私は、そう気づいた。
 仏教文化圏の中に生きていながら、我々は仏教について何も知らない。どうも仏教各宗派は、その方がよいと考えているようにさえ思える。
 江戸時代中期、大坂に富永仲基という独創的な思想家がいた。彼は、仏教だと思われているものは後世さまざまに改竄されていると説いた。高校の日本史で「加上説」なんて習ったな。そう思って仲基の『出定後語』を読んでみると、加上説の意味さえまちがって理解していたと思い知らされた。後世の仏教を「原典の上に書き加えたものとする説」ではなくて、後世の者が自分の思想を「上位に加いて説いたもの」とする見解なのである。
 これじゃ、阿含宗と阿含経を混同する善男善女を笑えんな、と思った。そうこうしているうちに、私は五十歳になり、六十歳になり、この秋には六十五歳である。友人たちは、私より何も知らないまま、寺まわりをするやら、通俗仏教書を読むやら、おかしな道心に衝き動かされている。若い頃はみんないくらかは哲学書も読み、歴史書も読み、科学書も読んだはずなのに。
 そうだ。そんな哲学書や歴史書や科学書を普通に組み合わせれば分かる仏教書が必要なのだ。幸いにも、私には一切の宗教心はない。ただ、仏教の思想的重要性はよく理解している。宗派の利害を離れた仏教書を書いてみよう。そう決意してから何年たっただろう。やっとこのたび筑摩書房から『つぎはぎ仏教入門』を上梓することになった。私の唯仏論、「私的唯仏論」である。
 日本全体に価値観の再構築が問われている今、仏教界は残念ながら、これに応えていない。私の唯仏論が彼らを目覚めさせることを望みたい。「覚る」ことは「目覚める」ことなのだから。

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