鶴見俊輔は、いつも人をまっすぐ見つめる。彼は人間の価値を、規制の枠組みの内部では捉えない。
学歴、肩書き、地位、名誉……。
彼は名刺を投げ捨て、権威を疑う。そして、合理的思考の外部に属する人間の性質に、本当の価値を見出す。
鶴見に小賢しさは通用しない。そんなものは、人間にとって何の価値もない。「樽」の中の論理は、「樽」が崩壊すると、何の役にも立たなくなる。それどころか、「樽」に合わせて自己を形成した人間は、「樽」の崩壊が自己の崩壊につながる。そんな自己を抱きしめて生きることに、何の価値があるのか。
鶴見は、この「樽」の中の論理を「一番病」と言う。既成の「正しい答え」を即座に割り出し、権威者の顔色を見る。そして一歩ずつエリート街道を突き進み、自己を失っていく。一番病患者は「パブロフの犬」なのだ。
鶴見は言う。
「エジソンは、東大には入れない」。
戦後、丸山眞男は「ファシズムというものは、亜インテリが作った」と論じた。そして、東大生を前に「皆さんは東大に受かっておられるんですから、亜インテリではありません」と述べた。
鶴見は次のように言い返す。
「東大に入っているから亜インテリなんじゃないか」。
鶴見が認める本物のインテリとは、本質と向き合うことのできる人間だった。そして、その行為を通じて自己の小賢しさと対峙し、行為によって乗り越えようとする意思こそが真のインテリジェンスだった。思想は観念ではなく、態度に表れる。「語り口は思想なんです」。
鶴見は、ポケットに入った金を全部出せるかどうかに思想を見た。彼は、高度成長に「逆回り」する人間を「大した男」と見なした。そこに右翼も左翼もなかった。存在したのは、態度だけだった。
鶴見はべ平連の活動中、収入の大半を運動につぎ込み、「経済的には破綻に瀕し」た。各地を演説して回ったため、肉体的にもボロボロになった。妻は心臓病になりながらも、いつ誰が家に来ても「飯を食べられるようにしていた」。この姿こそが、鶴見にとっての思想だった。
鶴見は言う。「いい人がいけない」。
さらに言う。「真面目な人、いい人は困る」「正義の人ははた迷惑だ」。
なぜか。
それは「いい人は世の中と一緒にぐらぐらと動いていく」からだ。「いい人ほど友達として頼りにならない」。
それに引き換え、「悪党は頼りになる」。それは「悪党はある種の法則性を持っている」からだ。
鶴見が重視するのは、世の中と一緒にぐらつかない「ある種の法則性」である。「樽」が崩壊してもびくともしない価値の基準だ。
しかし、そんな価値は、近代以降の世の中ではいつも敗北を味わう。ポケットの中の金をすべて出しても、小賢しい世界に押しのけられる。負け続ける。
だから鶴見が大切にするのは「負けっぷり」である。ただぼんやりと負けたのでは意味がない。「負けっぷり」を示してこそ、価値のある負けなのだ。鶴見はそれを敗北力と呼ぶ。
――日本人が捨てたものとは何だったのか。
この問いは、「自分は大切なものを捨ててはいまいか」という問いとなって読者に返ってくる。私たちの態度こそが問われているのだ。
われわれは本気で負けているだろうか。自己への問いのないところには、敗北も存在しない。