ちくま学芸文庫

クルーグマンが教えてくれる経済学の驚き

 ぼくの訳した『クルーグマン教授の経済入門』は、原著はもう二〇年も前の本だ。昨年ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン若かりし日の名著となる。テーマはアメリカ経済。ぼくの訳が初めて出たのも、十年以上前になる。にもかかわらずこの本は未だに古びていない。もちろん時事ネタは仕方ない。でも本書は時事ネタそのものの話よりも、それをどう見るかという経済学的な考え方にこそ価値がある。そしてぼくを含む多くの経済学素人は、かれの教えてくれる経済学、特にその限界についての記述に心底驚かされたのだった。
 特にみんながびっくりしたのは、生産性がなぜ上がるかよくわからない、という話だ。素人の多くは、生産性くらいすぐに上げられると思っている。ITを入れれば、教育をよくすれば等々。でもそうじゃないという。多くの人は、これをはっきり言ってもらったことで救われた。やり方がわかっているのにそれができないなら、単なる無能だ。でもそうでないなら――やり方がわかっていないなら――見当違いなところで犯人捜しをして時間を無駄にすることもなくなる。
 またインフレや保護貿易は国を傾ける天下の愚策というのが、メディアで見かける経済学的な通説だ。でもそれもちがうという。そして本書が出るまで、一般の人は中央銀行がそんなに重要なところだという認識はなかったんじゃないか。
 そしてまた、この本は現在の名コラムニストとしてのクルーグマンの原点でもある。ややこしい経済学――そして経済そのもの――の概念をわかりやすく説明するクルーグマンの手腕が発揮されたのは、本書が初めてだったんだから。
 その手腕はその後、同じちくま学芸文庫に収録された『経済政策を売り歩く人々』でも遺憾なく発揮されている。この本でケインズの不況理論やアカロフの限定合理性理論に初めて接した人も多い。そしてかれの政策論争へのコミットが登場したのは、この『売り歩く人々』だ。とはいえ最近のクルーグマンしか知らない人には意外だろうけれど、これはどっちかといえばアメリカ民主党の政策に怒り狂っている本だ。特に、自分が中心となって開拓した収穫逓増に基づく貿易理論(これはかれのノーベル賞受賞の理由でもある)が保護貿易擁護に使われてしまったことについては、非常に苦々しい思いを吐露し、ついでに当時の通俗経済評論家をなで斬り状態で罵倒しまくっている。
 実は『売り歩く人々』はぼくがMITにいるときに書かれた本で、いろいろ裏話も聞いた。かれは自分がクリントン政権の経済政策スタッフに選ばれると確信していて、お声がかからなかったことにえらくお冠だったとか。ついでにこの頃、かれは教科書共著者のロビン・ウェルズと不倫中で(いまはきちんと結婚している)、時間さえあれば彼女のいたスタンフォードに飛んでいく生活で心身ともに疲れ切っており、押さえが聞かなくなっているんだ、だからあんなに口が悪いんだとか。
 でも最近の共和党の経済政策批判を見ると、必ずしもそうでもないらしい。もともと口が悪い人、もとい歯に衣着せぬ人物ではあるのだ。それがかれのいいところでもあり、悪いところでもある(という人もいる)。
『経済入門』の翻訳は、ぼくなりにそのいい/悪いところまで含めてクルーグマンの魅力を表現しようとした結果ではある。訳の文体は、当時も今も好き嫌いが分かれるところではある。でも個人的には、今読んでもまったく違和感はない。今回の再刊でなるべく多くの人が経済学の魅力に触れてくれますように。そしてそれ以外にもこの本の訳者あとがきが、たぶんクルーグマンの業績の全貌についての、いちばん早い時期に書かれたいちばん網羅的な解説になっているのも自慢だ。さらにその後の日本――そして今の世界――が陥る一大経済問題である、デフレ不況に関するかれの先駆的な論文をいちはやく収録できているという点で、この『経済入門』邦訳はいまなお驚くほどの現代性を維持していると思うのだ。

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