哲学は概念を扱う。そして概念は常に、何らかの問題に対応するために創造される。たとえば、今もなお「国民主権」という表現によって我々になじみ深い「主権」なる概念も、近代初期、ヨーロッパ社会に突きつけられた問題に対応する形で創造されたものである。哲学は漫然と存在しているわけではない。それは常に、問題に対応するという仕方で存在する。
これまで数多くの哲学者たちが、問題に直面しつつ、それに対応するべく概念を創造してきた。たとえば一七世紀の哲学者デカルトは、それまでは疑われることのなかった社会秩序が崩壊し、人間たちが懐疑の泥沼の中で溺れかけていた時点で、「我思う、故に我在り」という命題で知られるコギトの概念を提示し、確実であるとはどういうことかを示してみせた。デカルトは、「確実性」とか「私」とか「神」にボンヤリと思い至ったのではない。彼はある問題を突きつけられ、それらについて考えざるを得なくなったのであり、その問題に対応するために、新しい概念を創造したのである。
このようにして哲学を“問題と概念”によって定義するならば、古典を読むことの意味がはっきりする。現代を生きる我々も、当然、何らかの問題に直面する。もしもその問題が、これまでに取り組まれたことのある問題と共通点を有していたならば、その取り組みの中で創造された概念が、現代の問題に対応する上で役に立つだろう。その概念は、たとえば問題に対応する上での盲点や、取り上げるべき論点を教えてくれるに違いない。
また、これまでにも取り上げられたことのある問題に、改めて取り組む中で、過去の哲学者たちの対応がいまとなっては不十分であると判断せざるを得ない場合もある。この場合には、既存の概念をどう批判し、新たな概念をいかに創造すべきかが課題となる。しかも、これまでの対応が実に長い歴史をもっていることもあり、その際には、その歴史についての実に長い検討が必要になる。国家という問題はそうした事例の一つである。
国家はいかなる問題を形成しているのだろうか? 人間は必ず複数存在し、その複数の存在が一緒に集団をなして生活しなければならない。すると、その集団はどのように導かれるべきかという問いが生まれる。国家という問題の中心部にはそのような問いがあり、それが他の様々な問いと絡み合って国家という問題を形成している。この問題に対して人類は様々な解答を与えてきた。そして、四百年ほど前、一つの画期的な解答が与えられた。それが先に述べた「主権」である。
現在、様々な場面で「民主主義の危機」が語られている。だが、そこで問題になっているのは、実は「主権の危機」である。主権は、立法による統治、すなわち法律による支配を前提としている。我々の知る近代の民主主義は、この主権を民主的にコントロールすることを理想としている。しかし、そもそも立法による統治は可能なのだろうか。というのも、実際の統治行為において決定を下しているのは、立法府ではなくて行政機関だからである。町の保育園を民営化するとか、道路を新たに建設するとか、軍事基地を建設するとか、そういったことを決めているのは行政(役所や政府)である。
民主主義がいま我々に突きつけている問題を考えるためには、主権概念を再検討しなければならない。そして主権概念を再検討するとは、この概念が対応しようとした問題をもう一度考え直すということであり、それはすなわち、近代の政治哲学を読み直すことに他ならない。現在、近代政治哲学の古典を読み直すことが喫緊の課題になっている。それらはただ単に古典であるが故に重要なのではない。我々はそれを再読することを迫られているのだ。近著『近代政治哲学──自然・主権・行政』はそうした取り組みへのささやかな貢献である。