資本家は存在していても、資本主義者は存在していない──この主張はかつて強い影響力をもっていたし、今もある程度は信じられているし、私自身もかつてそう思っていた。本書は、この主張が誤りであることの一つの証明である。
大澤氏が「資本主義者」という語を用いているわけではない。それでも、このような紹介をせずにはいられなくなるのは、本書が経済現象としての資本主義という観念を徹底して斥けているからである。資本主義を経済現象に還元することはできない。資本主義は我々の経済行為にのみ関わっているのではない。
こう考えてくると、本書の試みが決して孤独な試みではないこと、それどころか、偉大なる先達を有する試みであることが見えてくる。マックス・ヴェーバーはプロテスタントたち──とりわけカルヴァン派──の倫理が資本主義の成立に大きな役割を果たしたことを示した。ヴェーバーに強い影響を受けたエルンスト・ブロッホやルカーチ・ジェルジュはカルヴァニズムを資本主義のイデオロギー的対応物として批判的に検討した。そして、ヴァルター・ベンヤミンは、以上を踏まえて、「宗教としての資本主義」という断章を執筆するに至った。「資本主義はひとつの宗教と見なすことができる」という強烈なインパクトを残すこの断章の書き出しは、本書の目指す先をイメージするのに大いに役立つであろう。ヴェーバーを社会学の始祖の一人と捉えることが許されるならば、社会学者・大澤真幸氏は本書において、ベンヤミンがヴェーバーを参照しつつもその先に向かったように、この社会学の始祖の試みを改めて引き受け、その先に向かうのである。
これは決して比喩的な説明ではない。本書の核心部にはカルヴァン派の予定説に対する徹底的な解明がある。救われる者と救われない者とが神によってあらかじめ定められている……。異様としか思えないこの説が、なぜそれほどに普及し、また重要であったのか、少なからぬ人はさしたる考察も加えぬまま、頭の片隅に放っているに違いない。大澤氏はこの異様な説の中に身を置き、それが人間にどれほど不安を与えるものかを、読者に、知らせるというより体験させる。それだけではない。その解明は、消耗しきっていない商品を廃棄し続ける消費行動が、実は最終的な享楽(満足)を拒否しているという意味でピューリタン的であるという、まさしく読者の虚を突く逆説にまで到達する。予定説のポテンシャルをここまで描ききった書物がかつてあっただろうか。
その後、予定説の不安化作用が取り結ぶ、科学(近代知)および小説(近代文学)との関係が証明されていく。特に、近代科学はそもそも人間の性質に反しているとまで述べる第三章「増殖する知」の記述は強い衝撃を与える。小説がもつ資本主義的な不安に対する抑圧作用を証明する第四章「神に見捨てられた世界の叙事詩か?」は、読者に全く新しい小説観をもたらすであろう。
思えば、資本主義が百年以上にもわたって熱心に論じられてきたにもかかわらず、「資本主義学Capitalismology」が存在しないのは不思議なことである。広義の経済学がほぼ独占的にこれを論じてきたという事実は、資本主義を経済現象と見なす傾向が鋼鉄の檻のように存在していることの証しである。大澤氏は『経済の起原』(岩波書店)でも資本主義を正面から扱ったが、同書は経済学および文化人類学の枠組みに議論を留めていた。それに対し本書は「資本主義学」という新しい学問の創設の試みではないか。
本書が最後に、「抽象的・論理的なレベルでのみ」と断り書きをつけて示す「資本主義の〈その先〉」は、普遍性という、これまでに人が何度も取り組み、何度も断念してきた概念を中心にして示される。そこには新しい学問の言葉としか言いようのない、既存の学問内部には位置づけがたく、また、読者の心を揺さぶる理路が示されている。繰り返し述べれば、本書は偉大なる先達たちの継承として書かれているのだった。新しさ、そしてこの伝統への忠実さこそ、本書を唯一無二の試みたらしめているものである。