中学生のみなさん。といっても、誰の魂のなかにも生き生きと保持されている〈中学生〉──つまり、自分を包んでいた、家族関係中心の保護膜のような繭が割れて、この広い世界のなかで、自分がひとりで生きている、生きていかなければならないのだと思い知るという、人生の決定的なステージの転換期を生きている人こそ、わたしが〈中学生〉と呼ぶもの──に向かっての呼びかけです。
わたしがつくりあげた神話的なイメージによると、この〈中学生〉、ある日、たとえば学校に通う路の途中、何気なく見上げた空の青さにどっきり心奪われて放心、言いようのない感情に襲われます。ひとつは、孤独と言いましょうか。世界はこんなにもわたしに無関心だ、この限りない無関心の世界を自分はひとりで生きていかなければならない、というもの。理由のない悲しみ、難しい言葉で言えば、「寂寥」というやつですかね。
でも同時に、もうひとつ、理由のない歓びもある。ほかの誰でもなく、自分がここにこう生きてある、という純粋な歓び。この両極端の感情に襲われて〈中学生〉はほとんど涙ぐむ。でも、これは理由のない感情なので、本人もどうしてこうなったのかわからない。で、わからないものは、忘れてしまうのがいちばん──というわけで、記憶からすっぽり落ちてしまう。
「何のために『学ぶ』のか」という問いを説明しようとして、わたしがまず思い浮かべるのは、こういうファンタジーのような場面ですが、それは、ここにこそ、問いへの「応答」がひそんでいると思うからです。どういう意味か。それは、ここに、人間にとっての「学ぶ」ことの「根拠」があるから。つまり、わたしにまったく無関心にあるこの世界を、わたしは、それでも知り、学び、そして愛するのでなければならない。それが、人間としてこの世界に生きるある種の「義務」だということ。間違えないでくださいね、これは、誰かから押しつけられたものでもなく、誰かのためのものでもなく、この世界にわたしが生きることと一体となった「義務」なのです。
そう、わたしが言いたいのは、何かのために「学ぶ」のではないということ。それは、「何かのために」などということよりも深い、もっと根源的なことだ、と。高校に入るために?大人になるために?これこれができるようになるために?……全部、嘘。強いて言うなら、あなたが世界を学ぶのは、あなたという存在のため、世界という存在のため、そのふたつの存在のあいだに、素晴らしい関係が生まれるため以外ではないのです。
ひとつ例をあげましょうか。「三角形の内角の和は180度である」とたぶん小学校の算数でならったはず。これを「学ぶ」のは何のためなのか。もちろん、「三角形のため」に、です。とがったのも、ぺちゃんこなのも、正三角形も、ピタゴラス君が愛した直角三角形もすべて「内角の和は180度」──無限に多様な三角形を貫いてひとつの関係が恒等的に保持されている。個別の三角形を見ているだけではけっしてわからなかった三角形という存在が、見えてきます。三角形が、ひとつの「本質」によって照らされているのがわかる。三角形は美しい……そして、君は、今後、ずっと三角形を「愛する」! ことができるようになる。
世界のどんな微細な部分にも同じことが起ります。一枚の落ち葉、細胞のひとつ、物質のかけら、人間がつくり出したもの、行ったこと、……世界のどんなものも、恒等的な関係、秩序、原理、意味を隠しもっている。そして、それは、君自身もまた同じです。徹底して無関心な世界と孤独な〈中学生〉の無関係の関係に、なにかが起ります。「学ぶ」ことによって、「無関係」が、「本質」、「理解」、「美」、さらには「愛」という言葉がカヴァーするような「関わり」へと変化するのです。世界を生きることが「感動」へと変わる。その「感動」のために、ひとは「学び」続ける。それこそが、この世界で生きることのもっとも根源的な「意味」なのだと、わたしは思います。