大江 この人は自分の時代の大きい見事な人だと思ってきた方の訃報に接して、若い時は悲しむだけだった。それが年をとってきて私が経験するのは、驚きに打たれて、ほとんど恐怖するということです。わずかな数の友人や家族とその人のことを話す。「新約聖書・ルカ書」の終り近いところにある通り、「暗い憂鬱な顔をして」。あるいは一人「暗い憂鬱な顔をして」その人のことを思っている。
ところが時が経つと、あのような人に会え、お話を聞くことができたことを、「あの人の言葉を聞く間、我々の心は燃え立ったではないか」(これも「ルカ書」の最後に出てくる言葉です)と考える。
加藤周一さんが亡くなられたときに経験したのは、まさにこの通りでした。
私は新聞に加藤さんへの追悼文のようなものを書きました。そこで加藤さんを「大知識人」と呼んだことが、真面目な雑誌で批判された。それをアメリカのやはり古い友人にグチる手紙を書いていて、さて「大知識人」にあたる英語があるのだろうかと考えました。辞書の例文を見るとsome important figures in European intellectual lifeというのがあった。「大知識人」という表現は単独で存在するのではなく、たとえばヨーロッパの知識人の中に、あるとても重要な人々がいて、その一人が彼だ、というような言い方をするらしい。
そこで私は日本にインテリジェントな人たちの生活というものがあるだろうかと考え、あるとしたら、そこで大切な人物とはだれだろうか、と考え進んで、確実に、加藤さんは日本にありえたインテレクチャルライフのなかのもっとも大切な一人だと思いました。
そうした知識人のことは、『日本文学史序説』に読み取ることができます。
日本最初の知識人――紀貫之と菅原道真
大江 この本で「知識人」という言葉が初めて使われるのは八世紀の山上憶良についてです。大陸文学の教養を持った憶良型の知識人官僚は、しかし単独で、孤立していた。百年たち、そういう人がようやく群を成して現れ始めた。これが九世紀の社会的な特徴の一つだと分析されています。
そのようにして現れてきた知識人に二つの型がある。一つは、藤原氏の一派が権力を独占したために、政治的に没落した貴族のなかから現れた知識人。政治的権力の中心から遠ざけられた紀氏からの、代表的な人が紀貫之だというのです。もう一つは、上流貴族ではなく、比較的下級の儒家から出て、官僚として高位に昇った人物で、祖父の代からの儒者で右大臣となった菅原道真がその典型、と書かれています。
紀貫之は、「万葉集」以後の秀れた歌を全日本の規模で「古今集」に編纂した、きわめて知的な人。「土佐日記」という旅行記も書きました。
八~九世紀の僧、慈覚大師円仁のことも、加藤さんは最初の優れた知識人たちの一人としますが、円仁が書いた「入唐求法巡礼行記」という旅行記には、旅で遭った民衆の苦しい人生が描かれている。しかし紀貫之は、実際の生活のことは書いていない。漢文で書く円仁には、そういうリアリズムが可能だったけれども、紀貫之は、貴族が集まって歌をつくる会合を主宰し、その一人としての旅行記を書けても、民衆の生活を見極めて書くということはなかった。それは日本語と中国語との言語の違いでもあるし、だいたい日本のインテリは、まずリアリズムでないところから出てきたのだ、と加藤さんはいいます。
一方、菅原道真は中国語で優れた詩をつくったわけですが、つまりは彼の中国語の作品を鑑賞し、理解することのできる知識人グループが既にできていたのだという。それは、紀貫之の日本語の歌を受け止めるグループと同じように、九世紀初めのインテリ集団の出現を意味しています。
そこには共通点も相違点もあると加藤さんはいう。「月は鏡のように澄んでいるが、罪の無実を明かしてはくれない、風は刀のように鋭いが、かなしみを破らない、見るもの聞くものみじめであり、此の秋はただわが身の秋となった」、こういう意味の漢詩を、菅原道真は自分の経験に即してつくり出した。他方、紀貫之が「古今集」に択んだ歌には、「月みればちぢにものこそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)というのがある。
状況は対照的です。一方は、政治的に追い詰められて地方に流されたインテリがつくった歌。他方は、宮廷の歌人が歌合で詠ったもの。中国語と日本語という違いもある。にもかかわらず、同時代の詩的表現に明らかに相通うところがあります。
八世紀までは、たとえば「懐風藻」の漢詩と「万葉集」の日本語の歌とを比べても、こうした共通な感情、共通の表現はなかった。ところが九世紀を経て十世紀初めになると、宮廷歌人の大江千里と、追い詰められた官僚で漢詩を書く菅原道真とのあいだに、同時代の人間としての同じ内面が感じられる。こういう作品をつくる者らが知識人であり、一つの時代に、違った教養や職業の立場を持ちながら、ある文化的なものを共有できるということが知識人の条件であると、加藤さんは示しているわけです。
百年前の知識人――石川啄木
大江 では近代に特有の知識人とはだれか。
子規、露伴、漱石、鴎外らも、明治維新、日清・日露戦争という時代の刻印を大きく受けた知識人たちですが、加藤さんが重要視するのはその次の世代、維新から二つの戦争までの時代に生まれ青年になって、不安かつ不幸な時代状況をもろに引き受けた文学者、端的に言えば石川啄木です。
一八八五年に生まれて一九一二年に死ぬ石川啄木は、日清戦争に至る社会の変動を知っている。そして二十代初めに文学者として活動し始めるとたちまち、大きな時代の壁にぶつかってしまった。日露戦争後から十月革命前という、一九一〇年前後の時代の特徴を、もっとも明瞭に書いたのが石川啄木だと加藤さんは考えています。
今から百年ほど前の一九〇七、〇八年には、大学を卒業しても就職がないという、現在の日本と同じようなことが起きていた。石川啄木は、そのことを批判して、「時代閉塞の現状」を書きました。時代が閉じていて若い人が希望を持てない。しかも一九〇五年に日露戦争が終わって新しい経済状況になり、国際関係が進展して、日本では、国家自体が社会を閉じさせるまでの大きな権力をコントロールするようになった。しかし、その制御のまま若者は閉じてはいけない、そこを自由に突き破っていく力を、言葉を、行動を起こさなければいけない、と啄木は書いたわけです。
若者の心をなぐさめる美しい歌をつくりながら、もう一方で大逆事件の幸徳秋水に、すなわち「テロリスト」に共感するものが自分のなかにあると歌うような、そういう知識人の文学者がここで現れた。これが加藤さんの着眼点です。
新聞社にいた啄木は、幸徳秋水が獄中から弁護士に書いた手紙を入手して書き写します。クロポトキンの本を引用しつつ、自分たちアナーキストは天皇家を攻撃しようとしたものではない、と書いた手紙です。啄木はそこに自分の感想を書き加え、クロポトキンの英語の文章も写しています。
外国語を勉強して新しい思想を学ばなければいけないと考えていた、当時の生真面目で不安な青年に、加藤さんは大きな関心を寄せています。啄木は時代の病である肺結核になって、貧しさから死に、家族も滅びてしまう。しかし、違う社会状況であったならばどうなっていたか。
その百年前、ハインリッヒ・ハイネは、同じような閉塞状況のプロシアから逃げ出し得た。ヨーロッパ文化の中心地パリで亡命生活をしつつ、啄木と同じように美しい詩をつくり、激しい政治的言論を展開するジャーナリストとなりました。
もしも充分なお金があって、満足な教育を受け、きちんとした生活ができ、日本が「孤立した島国」でなくて外国に亡命できるような状況だったら、啄木は日本のハイネとして、全く新しい文化状況をつくっただろう、そうした文学者が確実に誕生したはず、と加藤さんは想像します。
啄木が苦しんだ時代が、つい百年前のことにすぎないのを、いまの若いみなさんに考えていただきたいと思います。百年前のことが、いま再現しつつあるのです。
啄木から百年後の現在、新しい閉塞状態がある。そのちょうど中間の時期が一九四五年頃です。戦争に敗けた後につくり上げられた日本には、新しい文化への動きがありました。時代閉塞を打ち破るような可能性があの時代にはあったのだというのが、加藤さんが証言していられることです。
外国語を読み、外国人と議論し、協同の仕事ができる人を、加藤さんは高く評価されました。自分の研究をし、海外での経験も積んで、普遍性を持ったところで世界的に活動できる人こそが知識人なのだと。だから若い人たちは外国に行ってきちんと議論できる者になる必要がある、少なくともそれが知識人となるための第一歩なのだと、自らの人生でそれを証明されました。
かれの原則の一つに、文学作品を高く評価するという態度があります。一人の女性歌人が詠んだ歌、一人の農村の老俳人がつくった俳句を、つねに丹念に読み解いていく。近松門左衛門の浄瑠璃についても、井原西鶴の小説についてもそうです。そういう文学作品には、同時代を生きた人たちの共有する感情があり、それを読み取ることが時代を読み取ること、社会を読み取ること、日本語の実質を読み取ることだ、という確信を具体的に示されました。
『日本文学史序説』について、有名な外国人の文学研究者が「優れた作品だが文化史であって文学史とは言えないのではないか」と批判しました。しかし、それは間違っている。加藤さんのように一つ一つの作品を文学的なテキストとして深く読み取る文化史家・文学史家はいなかった。具体的な読みの上に立った、日本社会、日本文化、日本の歴史についての結論が、この本にはあらゆるページに満ちている。知識人とはどういう条件を持つ者なのか、加藤さんは厳格にかつ寛大に様ざまなタイプを取り上げ、かれらの作品をこのように重んじているのです。