ちくま新書

化学の骨格を学びなおす
齋藤勝裕『やりなおし高校化学』

5月のちくま新書より「はじめに」を公開します。齋藤勝裕さん『やりなおし高校化学』の一部を立ち読みすることができます。

化学は面白い 

 本書は、高校の化学の授業でやったが忘れてしまったこと、あるいはその授業で分から
ないままにしていたことを思い出す、あるいはやりなおすための本である。
 しかし、本書の目的はそれだけではない。高校の化学は面白くなかった、あんなものを
やるのは時間の無駄遣いだと思った、さらには化学など二度とやりたくない。そのように
思われる方に、改めて化学の面白さ、あえていえば化学の本質を知っていただきたいと思
う願いを込めて書いた本である。
 化学を面白くないと思われるのも、化学などに時間を割くのはもったいないと思われる
のもよいだろう。あるいは、科学の本質を極めるなら化学よりも他に物理や数学がある。
そのように思われるのも結構だし、私自身、そのお気持ちはよくわかる。
 でも、そのように決めつけるのは少しの間、待っていただきたい。少々の時間を割いて
本書をつまみ読みすれば、高校の化学の教科書とは違うことにお気づきいただけることと
思う。本書の最大の特色はそこにある。

化学の骨格を見る
 高校化学の教科書を易しく嚙み砕いた解説本はたくさんある。高校化学の導入のような本もたくさんある。しかし、そのような本の多くは高校化学教科書の呪縛から逃れられて
いないように私には思える。私には高校化学の教科書は、易しいことを難しそうに記述し
ているように思えてならない。
 どうでもよいような細かい事実を正確に書き連ねるあまり、大事な本質が隠れてしまう
のである。これは、葉っぱに覆われて幹や枝ぶりが分からなくなっているようなものだ。
葉っぱを刈り込んで、化学という樹木の枝幹(しかん)をお見せしたい、それが本書を貫く方針である。枝と幹、つまり化学の骨格だけを眺めたら、高校化学が扱う範囲というのはこんなに少なく、こんなに簡単だったのか? と驚かれるのではなかろうか。このようにすると、今まで精力を注いでいた葉っぱの理解、暗記の代わりに、他の大切な枝の理解に傾注することができる。すると、それまで見てきた枝の必然性が理解でき、樹木全体の理解が増すというサイクルが出来上がる。
 本書はそのようなサイクルの形成を目標としている。そのため、高校化学では扱わない、一見高度なことも紹介している。しかし、読んでいただけば分かる通り、それは高校化学で扱わないだけであって、決して難しいことではない。それどころか、それを理解することによって、従来の高校化学の部分がより理解しやすくなるのである。

宇宙の誕生と原子
 文学的な表現で「悠久の宇宙」といったものがある。宇宙の枕言葉として悠久という言
葉がついてくるようであるが、宇宙が永く続くという意味だけなら、その通りであろう。
しかしもし、宇宙が変化しないという意味が入っているとしたら、間違いである。宇宙は
変化しないどころではない。激しく変化しているのだ。
 そもそも「永い」とはどのようなスパンのことをいうのだろうか。地球の年齢は46億年ほどである。38億年前にはバクテリアが発生している。すなわち、生命の歴史でさえ、38億年もの「永さ」があるのである。それに対して宇宙の年齢は138億年である。永いといえば永いかもしれないが、このか弱い生命の歴史の4倍ほどの永さでしかない。
 138億年前に宇宙が誕生した時には、宇宙には原子番号1の水素原子しかなかった。それが集まって集団になると圧力と熱が発生し、核融合反応が起きて原子番号2のヘリウム原子が誕生した。それと同時に大量のエネルギーが発生した。これが太陽などの恒星の姿である。この変化は、太陽はもちろん、無数の恒星で今も進行しているのである。そして核融合はさらに進行し、次々と大きな原子が誕生している。
 しかし、これも原子番号26の鉄あたりまでである。鉄は核融合してもエネルギーを発生しない。エネルギーバランスを失った恒星は大爆発を起こす。その時に発生する大量の中性子を鉄原子が吸収して、さらに大きな原子が誕生する。このようにして、現在宇宙に存在し、我々が化学で扱う原子番号92のウランあたりまでの原子が誕生したのである。

原子は雲のようなもの

 わずか138億年の間にこれだけの大変化が起き、この変化が今も続いている。宇宙はまさしく悠久であろうが、実は大変動の場なのである。
 このようにして誕生した90種類ほどの原子が、地球と自然と生命体を作っているのである。生命体の変化にもまた驚くべきものがある。38億年前に誕生した単細胞バクテリアが6億年前には大型軟体動物に進化し、4億年前には脊椎動物になり、1億年前には恐竜となった。そして2500万年には類人猿が現れ、現代に至っている。
 このすさまじいまでの変化を担ったのは、結局は原子である。原子が結合して簡単な分子となり、簡単な分子が反応して複雑な分子となり、それが集まって機能的な集団となったのが生物だ。生物といえど、結局は分子の集合体であり、最後は分子であり、原子なのである。原子は丸い雲のようなもので、雲のように見えるのは電子雲である。電子雲の中心には小さくて重い原子核がある。原子核の直径は原子直径の1万分の1に過ぎない。東京ドーム(直径100m)を2個貼りあわせた巨大どら焼きを原子にたとえると、原子核はピッチャーマウンドに転がるビー玉(直径1㎝)ほどの大きさしかない。ところが、原子のほとんど全ての重量(99・99%)は、原子核にあるのである。
 原子はまさしく雲のような頼りないものに過ぎない。しかし、これが集まったものが物
質なのである。手を見てみよう。この手を作っているのは分子であり、このような原子な
のだ。雲か霧のようなものなのである。頭の中には脳みそが詰まっていると確信している
が、その実態はこのようなものなのだ。雲の集合なのである。ザルの比喩どころではない
のかもしれない。
 ところが、原子の性質、結合、反応は全て電子雲によるものである。雲か霧のようなも
のが互いに溶けあったり、反発したりして化学反応、すなわち自然の現象を作りだしてい
るのだ。まさしく色即是空、空即是色の世界である。
 このように見てみると、無味乾燥に見える化学もなかなか味があるように見えてくるの
ではなかろうか。

化学が実らせた果実
 化学者の私がいうのもおかしいが、化学はなかなか面白い。化学が他の科学と違うのは、化学は物質を扱うということである。
 私たちが実感する宇宙は物質からできている。そして全ての物質は化学の研究対象とな
る。生物もまた化学の研究対象である。すなわち、金属も鉱物も気体も固体も液体も、も
ちろん、食物も衣服も建材も、宝石、香水、アルコール、男、女、薬、毒、全ては化学の研究対象となるのである。このような化学が面白くないはずがない。というより、どなた
でも何かしら興味を持つ物があるだろうが、それがすなわち、化学の研究対象なのである。
 お酒が好きなら、それを突き詰めてゆくと化学になる。医薬品に興味があって、それを調べるといつか化学の領域に踏み込んでいることになる。毒も同じである。
 しかし、化学は物質の状態、性質、変化だけを扱うのではない。最も重要なのはその変
化の背後に潜む自然の摂理、法則である。これこそが先にいった樹木の枝幹、化学の骨格
である。骨格を調べ、それを明らかにして、自然の摂理を明らかにする。それが全ての科
学と同じように、化学の目的とするところである。
 だが、化学にはもう一つの目的がある。それは人々の幸福に資するということであり、
これこそは、化学が物質を扱う学問であるからこそできることである。つまり、化学は物
質、分子を調べるだけでなく、物質、分子を創り出すこと、すなわち、これまでこの宇宙
に存在しなかった分子を新たに創り出すことができるのだ。これは創造である。あえて不
遜な言い方を許していただけるなら、神の創造にも匹敵する創造なのだ。
 化学がこれまでにどれだけの新分子を創り出し、どれだけ人類の幸福に貢献してきたか? 地球上には 70億に達しようという人類が生活している。これだけの人類が十分では
ないまでも、とにかく生存に足る食料を得ることができるのは化学肥料と殺虫剤などの農
薬のおかげである。
 衣服も、合成繊維を抜きにしたら貧弱なものになるだろう。プラスチックのない生活が
想像できるだろうか? 電池がなかったらどうなるだろうか? 医薬品がなかったら人間の一生はかなり辛いものになるだろう。麻酔薬がなかったら手術はなりたたない。
 これらはまさしく化学という学問が実らせた果実なのである。これだけ豊富に果実が実
った学問分野が他にあるだろうか?

本書の扱う範囲
 本書はこのような化学を徹底的に分かり易く、楽しく紹介しようという意図のもとに作
られたものである。内容は化学理論を扱う物理化学から、鉱物などの無機物を扱う無機化
学、生命体を含む有機化学、さらには現代の大きな問題である環境問題を考える環境化学
まで、化学の全分野を網羅している。本書一冊を読破したら、化学に関してはほぼ完ぺき
に近い、広くて偏りのない知識体系を身につけることができるものと確信する。
 化学の良い所は、その表現手段として、文章や数式だけでなく、化学式という独特の方
法を持っていることである。例えば野球にはボールを投げ、それを打つというテクニック
があり、バイオリンには弦を押さえ、弓で弾くというテクニックがある。
 しかし化学の表現手段のテクニックは、それらとは比較にもならないほどの簡単明瞭な
ものである。化学式は慣れないと馴染みにくいかもしれないが、慣れてしまえばこれほど
便利なものはない。
 有機化学の構造式は、三角形や六角形など、まるで図形かと思われるものがメジロ押し
となる。これも、表記の約束事さえ分かれば、この上なく便利なものである。はじめは絵
を見るような感覚で見るのもよいかもしれない。慣れるにしたがって、その絵の持つ意味
が見えてくることであろう。
 本書は本格的な化学専門書の目次と考えることもできよう。本書を読んで面白いと思わ
れたところがあったら、そこをさらに進んだ書物で読みなおしてほしい。すると、本書を
読んで身につけた基礎知識の分だけ、専門書が読みやすくなっているはずである。それは
まさしく本書の意図するところである。また、何か調べたいと思う問題をお持ちならば、
本書を読んで、その問題がどこに該当するかを探していただきたい。その上で、その分野
の専門書に当たっていただければと思う。
 本書を読んで化学の面白さ、楽しさを実感していただくことができたなら、私にとってこれ以上嬉しいことはない。

関連書籍

勝裕, 齋藤

やりなおし高校化学 (ちくま新書)

筑摩書房

¥1,078

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入