ちくま新書

小沢昭一さんとの旅から
小沢昭一著『芸人の肖像 』

 一九七〇年、放浪の諸芸能を訪ねて列島を巡っているとき、小沢昭一さんがどうしても見つけ出したいものの一つが、当時絶滅していた猿廻しだった。猿廻しは他の諸芸能と異なり、その根拠地が不明で、幻の芸能めいていた。小沢さんは多くの試行錯誤の末に、権田保之助「社会研究娯楽業者の群」(大正十二年)の中に「……現今、東京を廻して歩く者は、凡て山口県の者で、熊毛郡を主な出身地とする」という記述を見いだし、それをたよりに山口県内を歩き回り、ついに光市で村崎義正氏に出会った。村崎さんに会う直前に、小沢さんが私の耳元に「間違いなし」と囁いた口調が忘れられない。村崎さんから漂う精悍で野太い様子から、小沢さんは確信をしたのだ。
 革新系の市議会議員をしていた村崎さんは小沢さんの猿廻しへの強い関心を知ると、「わしんところは、以前猿廻しをやっとったとです」と明かしてくれたのだ。
 まもなく村崎さんは、かつて猿廻しで日本国中を歩いた古老たちを集めて、小沢さんに引き合わせてくれた。各地を流す旅の中で、時には冷たい視線を受ける苛酷な試練を重ねてきた古老たちから、堰を切ったようにむかし話が飛び出してきた。
 バチで太鼓を叩いて、「継子いじめ」や「安来節」を歌いながら、猿の演技をなぞってくれる。それぞれが自分のスタイルを語り合い、往時を偲ぶ様子からは、遊芸人が道や街を闊歩していた風景が蘇るのだった。ある古老は「これでヒコ(猿)がおったらなー」と慨嘆する。この地では猿廻しをヒコやりと言うが、芸を仕込まれた猿も絶滅していたのだ。小沢さんのこの訪問が契機となり、村崎さんは議員をやめて、猿廻しの復活に命を賭ける決意をしたのだった。
 猿廻しは厩の守護神として馬の厄病除けをする祈祷性の強い時代を経て、次第に芸能色を強めた大道門付け芸としての放浪性を強めていった。今の世で放浪性の強い芸能といえば十日間ごとに小屋から小屋へと楽屋泊りを重ねるストリップだろう。
 一九七〇年の春頃。放浪芸探索の旅で大阪に来ていた小沢さんは宿の夕飯を済ませ、新聞数紙を拾い読みしていた。ふいに「おっ、一条さゆりがダイコーミュージックに出ている。まだ見たことなかったら行ってきたら」と言う。普段、そうしたことは滅多に言わない小沢さんから私がもらった、生涯一度のご推薦だった。
 幸い、最終回が始まったばかりだった。客席の後ろから覗き込むと、ベッドショウの最中で一条さんの悶絶ぶりに場内は水をうったようにシーン。やがて終盤の見せ所の所謂オープンが始まると、それまで魂を抜かれていたような観客が我に返ってどどーっと舞台に押し寄せる。一人一人への献身的なサービス。一条さんと客の間に熱い連帯心が通う。
 舞台が終了してから放心したような客が出口へ向かう。するとそこには一条さんが裸でタオルを前に垂らしたまま、ひとりひとりに声を掛けている。客の真情に丹念に寄り添い、尽くしきる一条さんの心根が生みだす空間だった。踊っているときでも、客席にセキをする老人がいれば、すぐ楽屋に入って風邪薬とコップを「ハイ、オッチャン」と手渡す人だった。
 切羽詰まった人生の事情で舞台に立ちながらも、客に真摯に尽くす一条さゆりを、小沢さんは「芸人を超えて菩薩の姿」と言い、芸能者として敬愛していた。
 後年、日本の放浪芸のチチ、ハハや肉親を求めて中国、東南アジアからインドまで巡った結果、猿廻しをはじめ、絵解き、人形遣い等々多くのものはインド、中国にルーツがあり、シルクロードならぬアートロードで吹き溜まりの日本列島にたどり着いたと、小沢さんは確信していた。生涯こだわった放浪芸は日本的という閉鎖性に留まらないで、地球規模で繋がるしなやかで、したたかな芸能であり、日本で滅びた放浪芸が地球上でまだ闊歩していることを小沢さんは喜んでいた。

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