十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス

第9回 「将来の夢」は何ですか?

寺子屋ネット福岡の代表として、小学生から高校生まで多くの十代の子供たちと関わってきた鳥羽和久さんの連載第9回。誰もが子どものころ聞かれたことがある「将来の夢」の話です。

この連載は大幅に加筆し構成し直して、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)として刊行されています。 刊行1年を機に、多くの方々に読んでいただきたいと思い、再掲載いたします。

あなたはきっと「将来の夢は何ですか?」と何度も尋ねられたことがあるでしょう。この質問は学校でたびたび回答する機会があるし、家族や親戚の集まりなんかで大人たちから唐突に尋ねられることもあると思います。

そんなときに、将来なりたい何かがあって、明確に答えられる人はうらやましいです。だって、将来の職業にしたいと思えるほど大切にしていることがあるなんてすごいことだし、しかも、あなたはそれに向けてがんばることができるのですから。

でも、私がみんなと同じ十代のころを思い出すと、それを聞かれるたびに困惑しまくって、「あぁ、その質問むり……、ちょっと、ていうか、かなりウザい……」と思っていました。

将来のことはよくわかりませんでした。やりたいことは音楽くらいだったし、自分が好きなことがお金につながるというイメージがちっとも浮かびませんでした。だから、自分の将来なんて考えたところで何も楽しくありませんでした。それどころかどうしようもなく暗澹(あんたん)たる気分になってしまうんです。高校に入るころには、将来の不透明さによるイライラがとうとう自分の頭の中身の全体を占めるようになってきて、そのせいでひどく投げやりな生活を送るようになっていきました。

将来を想像するのは難しい

いまになって考えてみると、そのころの自分がなぜそれほどに将来を憂(うれ)い、イライラを募(つの)らせていたか少しわかる気がします。

その理由としては、自分の将来の姿を想像することが難しかったことがあります。高校生の中には、すでに手に職を持ち始めていて将来を想像できる人もいるかもしれませんが、少なくとも当時の私は、よい想像をするための材料を何も持ち合わせていませんでした。

退屈な授業や理不尽な校則を押し付けられる学校は、たとえ自分を損なわせても社会のルールに合わせて生きていかねばやっていけないことを教える訓練場みたいに思えて、生きる気概(きがい)を奪うものでしかありませんでした。輝かしい未来を想像しようとしても、そのたびに自分の不甲斐(ふがい)ない現状を思い知らされるだけでした。そして、それにもかかわらず、何者かにならなければならないという焦燥感(しょうそうかん)だけはしっかりと持ち合わせていました。

高校生ってほんとうに辛いなあ、でも中学よりはちょっとマシな気がする。ということは、大学生になったら、きっといまよりはずっと自由な世界で生きていくことができるんじゃないかな。そんな淡い予感を噛(か)みしめながら、まだ何者でもない自分に対して悶々(もんもん)とした気持ちを抱えていました。

現在の私は多くの受験生たちと関わる仕事をしていますが、やはり彼らも将来への漠然とした不安を抱えていることがひしひしと伝わってきます。そして、目標に向かってひた走ることができない自分に対して、歯痒(はがゆ)い思いをしている人が多いと感じます。だから、あのときの自分に語りかけるつもりで、十代のみんながいまとは別のしかたで将来について思考するためのヒントを、これからいくつかお話ししたいと思います。

大人は「やりたいこと」を選んでいるの?

自分がこれから何をして生きていきたいのか。これに明確に回答できる人は、実は大人にもほとんどいません。あなただけじゃない。大人だって、肝心なところはぜんぜんわからないまま生きています。

でも、十代のあなたは、まもなく決めなくてはならない。どの大学に進学するか、どこに住んで、どのような職業に就くのかを決めることで、自分の人生の道筋を作っていかなくてはいけません。だから、そんなあなたがよりよく意思決定できることを望んで、大人はあなたに「何をしたいの?」と尋ねます。

でも、このことが、選択と決定についてあなたに大きな誤解を与える元になっています。あなたは当然こう考えるでしょう。「何をしたいの?」と尋ねる大人たちは、その人自身も自分がやりたいことを能動的に選びとった結果、いまのその人があるはずだと。

でも、これが違うんです。やりたいことを選びとった結果、いまの自分になった大人は確かに存在しますが、かなり少数派です。多くの人にとっては、選びとるというよりは、周囲の人たちや環境の中で、何かに突き動かされるようにして決めた、そして決めた先で人生が変転していった、というのがより実感に近いはずです。

だから、将来の夢を定めてそれに向かって進んでいくという設定自体、ほとんどの人にとって現実離れした話であって、あなたはそんな作り話に無理して付き合う必要はないんです。だって、あなたの未来はそのような形で開かれるものではないのですから。

そもそも、将来の夢を定めることがほんとうに良いことなのかという点は、疑われてしかるべきです。大人がなぜ性急に子どもに将来の夢を持つことを求めるかといえば、「目標があったほうが勉強をがんばることができるから」という発想があるからです。

でも、これまで私は20年間たくさんの子どもの勉強を見てきましたが、夢や目標がある子はがんばれて、そうじゃない子はがんばれないという傾向は見られません。逆に、勉強のやる気がないからといって夢を実現させる力が弱いというわけでもありません。

意味存在としての私たちは、一貫性を求める

大人は「目標をもつ」ことを称賛しますが、「目標」とか「めあて(目当て)」とかって、文字通り未来のひとつの点に照準を合わせて進むことが求められるわけで、それだとどうしても見える範囲がせまくなってしまいます。

目標達成のためには、各人の言動の一貫性を高めることが求められます。なぜなら、一貫性があったほうが意味存在としての人間の記号的価値が上がるからです。そして、効率性が高まるからです。これは私たちが行動を起こし、継続するためのひとつの条件であり、ゆるぎなく大切なことです。

でも、人間らしさに関わっているのはむしろ「一貫性がない」ことの方なんです。そのつどに湧き上がる新しい現実に対応しようとすれば、一貫性はたやすく崩れてしまいます。そして、一貫性を保つことよりも、そのつどに最適解を求め続けることのほうが実はずっと大変なことです。

将来の夢は早く決めないほうがいい

将来の夢に向かって一途に突き進むことにはいいイメージしかありませんが、実際のところ、小学校のときに将来の夢が決まってそれを抱いたまま中学、高校に進んでる子って視野がせまいなと思うことが多々あるんです。将来の夢に向かってがんばってるようすを見ながらつくづくすごいなと思う一方で、なぜそんなに早く自分の可能性を絞り込んでしまったの?ともったいなく思うこともあります。

私はこの文章の最初に、将来の夢がある人はうらやましいと言いました。半分は実感としてほんとうにそう思っているのですが(だって、子どもたちが将来の夢を語るのって、それが到底無理なデカい夢であればあるほど輝かしいです)、でも残り半分は、ちょっと疑いの目で見ています。あなたはほんとうに自分の欲望を知った上でそれを選んだの? と思ってしまうんです。

夢を実現させたのはいいけど、実際にやってみると自分の適性には必ずしも合わなかったという大人はいます。例えば、みんなの学校の先生たちって、夢があってその職業に就いた人が多いけど、先生たちがみんなその職業に向いてるかっていうと、そうじゃないですよね。いったいどうしてこの人、先生やってるんだろうという人もいる。(こんなこと言うと先生たちにほんとうに失礼なんだけど、実際のところそうなんだから仕方がないです。)

だから、いろんな学問や人と出会って、自分の好き嫌い、向き不向きがわかった上で仕事を選ぶことは大事なことです。それがわからないまま仕事に就くと、いつの間にか自分に合わないこと、やりたくないことを仕事にしてしまうかもしれません。

その意味で、あなたがもし「将来の夢を早く決めなくてはいけない」と焦っているとしたら、そんな考えは捨ててしまったほうがいいんです。むしろ、将来の夢は早く決めないほうがいい。それよりも、いまの出会いを楽しみ、出会いによる自分の変化を味わうことのほうが、あなたの将来をよいものにする力があります。

自分の特性を見極め、そして自分の欲望を見つける

巷(ちまた)では主体的に職業を選択していくことが重要だと考えられていますが、これはちょっと違いますよね。私たちが「選ぶ」ときには同時に選ばれなければなりません。交際相手を自分の意志だけで選ぶことはできないように、仕事だって同じなんです。私の特性(適性や特徴)を相手(仕事)が認めてくれた上でないと、いい仕事はできません。仕事で失敗した大人たちの多くは、そのことを見落としたまま現場に飛び込んでしまった人たちです。

その意味で、自分の特性を見極める作業は不可欠で、同時に自分の欲望のありかを知ることも重要です。その人が自分の夢だと大切に胸に抱えている中身が、親や社会の眼差しといった他者の欲望に乗っ取られたものであることも多々あるからです。

夢や目標があると言う子どもも、それが内発的な動機によるものかどうかという点では疑わざるを得ない子も多いです。親の前で言ってみたらすごく喜んでくれて嬉しかったことが夢の原点になった子もいて、彼らの中にはいまさら夢の手放し方がわからなくなっている子もいます。そんな子どもに対して、夢を叶えたいならがんばらなくちゃね、と親が声を掛けるのは、親子関係の地獄のひとつです。子どもはこうして夢という呪縛から抜けられなくなるのです。そんな子どもたちに、「あなたの夢は死んでいるよね」と声を掛けたくなったことも、一度や二度ではありません。だから、自分の「将来の夢」を見定めたいなら、他者の欲望にまみれていない、自分独特の欲望を見つけることから始めなければならないのです。

「選択」よりも、目の前に没入する

あなたは今日も不甲斐ない自分を呪っているかもしれません。でもあなたがいつも疑うべきことは、自分が大人から与えられた思考の枠でしか考えられなくなっているせいで悩んでいるのかもしれないということです。だから、悩んでいるときには、自分の「捉(とら)われ」に気づくことで新たなスタートを切ることができます。

自分の将来を決めることができない自分を恥ずかしく思う必要はありません。早く志望校を決めなさい、将来何になりたいかそろそろ決めたほうがいい、そんなふうに周りの大人から決断を迫られるかもしれませんが、そんなの合理的に決めることなんてできないんです。

あなたはいずれ、何かに動かされるようにして決めることになります。だから、そのときまでは、とにかく目の前のチマチマしたやるべきことに没入することが大切です。いまこれをやっていることで、私の将来がよくなるんだろうか。そんなことを考えてみても不安になるだけです。

その意味では最近、学校に導入された「キャリア・パスポート」(児童生徒たちが小学校から高校まで、自らの学習状況やキャリア形成を見通したり、振り返ったりしながら、自身の変容や成長を自己評価できるよう工夫されたポートフォリオ/文部科学省の資料より)なんかは最悪で、こんなものとマトモに向き合っていたらあなたは将来のことがますます不安になるだけですから、マジメに取り組まないでくださいね。あなたの「夢」さえも管理しようとする学校のやり方に易々と従う必要はありません。

あなたはこれからもいくつかの岐路(きろ)に立たされ、選択を迫られます。でも、人生ってそんなに二者択一のものではありません。あなたが選びとらなかったもうひとつの人生は、あなたの無意識の中にこれからも力強く存在し、あなたの未来を照らし続けます。

だから、ひとつの選択をあまり特別なものと考える必要はありません。その選択は、さらに枝分かれしていくあなたの道筋の始まりにすぎず、どっちみちあなたの道筋は一本道ではないのですから。このことを知っていれば、選択を誤ったことや、偶然的に自分が選別から漏れてしまったことを恨む必要はなくなります。

あなたは、選択し、決定したその後に、自分と出会い直すことになります。選択と決定の先に、いつのまにか新たな自分が生まれていたことに気づくのです。そして時間の重なりを経て、こうでしかありえなかった自分を認めたとき、あなたはさまざまな選択を経て、いまの自分になったという事実を受け止めるに至ります。そのときに、あなたはどうにか生き延びてきたなあという実感が、初めて手触りとして感じられるようになります。

どうかいくつになっても、自分独特の生き方を手放さないでください。働くことで心を消耗し、生きることの楽しみを奪われないために、あなたがこれからどのような道を歩んでいけばよいのか、緩(ゆる)やかに考えていってください。