紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 風が吹いていた。
 音を立てぬように戸を閉めた。ふと家を振り返ろうとして、九堂が庭に立っているのが見えた時、陽子は悲鳴をあげるところだった。九堂は草色の着物と袴を身につけている。白色の着物を着ていないということは、今は休むべき時間ということだ。そもそも、深夜零時を過ぎたこんな時間に、山入りするでもなく庭に立っているというのはおかしい。
「おまえ、どうしてここにいるの」
「陽子様が、家を出ていく気配がありましたので」
「べつに、なにもしない」
「それでは何故に、こんな夜更けに、おひとりで家を出て行こうとするのですか」
「ついてくるな」
 普段より強い口調で牽制しようとしたが、九堂は身じろぎひとつしない。七歳の陽子がする威嚇に恐縮するような男では、そもそも祖父や父の付き人を続けることなど、とてもできない。山伏になるような男連中は、粗暴さと無縁ではいられないのだ。
 十年前に、父が山から拾ってきたというこの少年は、父が廃寺の始末をつけた際に、古狸と共に床下に棲んでいるのを引っ張り出してきたのだという。話によれば、当時は発語もままならないような幼な子で、名前もない様子だったので、「九軒目のお堂で見つけた子ども」という意味あいで、父が便宜的に呼んだ名前が、今でも通用しているのだ。そのような怪しい出自でなければ、今頃は中等部の教育を受けている年齢なのだと思う。父が引き連れている弟子の中では格段に若く、それでいて誰よりも落ち着いた雰囲気があるので、陽子の家の女たちはみな九堂に好感を抱いている。「あの子は本当に、『掃き溜めに鶴』だわ」と母がつぶやき、「鶴ではなく、『掃き溜めに狸』なのかもしれない。信用してはいけないよ」と言って大叔母が低く笑った日があった。大叔母は、家にいる男連中を信用していない。父は慈善心から九堂を拾ったのではなく、自らの仕事の後継者にするつもりがあるのだと、陽子は男たちの態度から感じ取っている。山の神は女なので、美しい男は神通力を授かりやすいのだという話を聞いたことがある。
「この家に仕える者として、申し上げます。陽子様の深夜の外出を、見過ごすわけには参りません。碧子様のお部屋に、お連れしなければなりません」
 母の名前を出されて、陽子の喉がぐうっと鳴った。九堂が足を踏み出そうとした時、陽子は反射的に掌を前に差し出した。
「すぐにもどる。物をとどけたら、すぐに。石子様が羽織もなく、着物一枚で出て行ったのが、気になったの。これを渡したら、すぐにかえる」
 陽子は風呂敷を解き、荷物を開いてみせた。夜の闇に融けて目立たない色の風呂敷を、箪笥から引き出してきたのだ。闇色の風呂敷から鮮やかな橙色の羽織がのぞいた時、九堂の青白い顔に明かりが灯ったようにも見えた。
「おばあさま、石子さまが、家で大事なことがある日に、いつも着ている羽織なの。きっとこの羽織が、いまの石子さまにはぜったいに必要だと思う」
「絶対、ですか」
「山伏はいつどこで死んでもいいように、死装束を着ておつとめに出るでしょう? 石子さまだって、おつとめの時には衣装が必要なの。今日以上に大事な日なんて、私たちにはないんだから」
 徐々に、声が大きくなる。無骨者の九堂に、この羽織の重要性が分かるわけないのだ。それでも、今は九堂を納得させなければならない。意図もなく、九堂の胸ぐらに掴みかかる格好になる。陽子は九堂を睨みつけるが、九堂の視線は少し手前で落ちている。
 ふと、九堂の口もとから、笑いに似た息が漏れたような気がした。見ると、幼い子の泣き言を見守るような、やわらかな表情をしている。陽子が九堂の顔を眺めていることに気がつくと、顔を背けて咳払いした。いつもの素っ気ない表情に戻っていた。
「俺は幡の仕事に疎いゆえ、とんだ無礼をいたしました。それでは俺は、陽子様をお護りします。子どもの一人歩きは、何かと危ないですから」
「ひとりでも大丈夫だよ。人為にあっても、わたしに人為の呪いはきかないし」
「俺が心配しているのは、人為だけではありません。これ以上夜が更けぬうちに、屋敷で騒ぎとならぬうちに急ぎましょう」
 九堂が内袋から、白のガーゼの塊のような物をひき出した。ガーゼを解くと、茶色い小虫が体を丸めて、乾燥した状態でいくつか入っていた。その一つを指でつまんで放ると、人魂のような青い炎が九堂の前に浮かんでいた。
「これは、おまえの能力なの?」
 顔にかかる炎の熱の強さにたじろぎ、陽子は九堂に尋ねた。
「俺の力などではありません。『火虫』といって、山を歩くときに人の服について、体を火傷させる虫を乾燥させた物です。懐中電灯よりも暗く、こちらの方が夜道を歩く時には便利です。これで足下を照らしましょう」
 火虫は陽子から手幅ほどの距離をとって、前に浮かんでいる。蛾が炎の中心に張りつこうとして、ぶぶ、と鈍い音と共に灰となって地に落ちた。
「寅の道」の内部は、二十四時間絶えることなく電燈が灯されている。それでも、足下は闇に浸っている。火虫の明かりと熱に驚いた虫が、水っぽい音をたてて陽子と九堂の前から離れていく。
 石畳の上を小石が噛むような甲高い音がして、向かいから人為が歩いてきた。御所人形に似た真白い顔が闇に浮かび、思わず陽子の体は硬くなった。その瞬間、九堂が杖の先を引き抜き、人為の頭を躊躇なく貫いた。刃を引き抜くと、小さな体から噴水のように赤い血が流れる。操り人形の糸が切れたように、人為は力なく道に斃れ伏せた。
「放っておけば、山の獣が食うでしょう」
 人為の死体を通り過ぎると、暗闇に紛れていた虫たちがその死体を食む音がしていた。
 石室は、帝の居住していた屋敷近くに造成される。石室が完成するまでは、亡骸は屋敷の中に留め置かれる。その留め置かれる期間を「虎落(モガリ)」というのだ。
 洋装の軍服を身に纏った男たちが、石工師の指示のもと穴を掘り、石を積んでいる。赤い炎が石室と日に焼けた男たちの肌の色を染めている。恐らく、石室の造成を担った隼人連中がそのまま護衛を引き継ぐ慣習なのだろう。かすかに、低い歌声が響いている。隼人たちの、労働歌なのだと思う。
 石室がまだ完成していないということは、祖母はまだ屋敷の中にいるはずだ。
「先帝とともに、部屋にこもられてているのかも」
 隼人の監視の目をかいくぐり、屋敷の外を一周したが、戸はどこも固く閉ざされている。屋敷の基礎部分に取りつけられた鉄格子から、火虫を飛ばすと、屋敷の床下は伝統的な建設方法に則って、わずかばかりの空洞があることがわかった。
「俺が様子を見てきます」
 九堂が鉄格子を外した。祭祀の継承権を持つ家に仕えているとはいえ、明確な身分を持たない九堂が隼人たちに捕えられれば、ただでは済まないはずだ。しかも今は、虎落(もがり)を行う神聖な期間なのだ。
「だめ。行くなら、私が行く」
「それならば、先に俺を行かせてください。先ほど床下を覗いた際に、わずかに光の漏れる室がありました。恐らく、石子様はそちらの部屋に詰めていらっしゃるのでしょう。試しに俺が床下から、声をかけてみます」
 言い終えるやいなや、九堂は床下に身体を滑り込ませた。その後を追おうとしたが、七歳の陽子の体でも、その穴をくぐり抜けられない。頭から入れば寸分も入らず、足から入ると腰の辺りでつっかえてしまう。九堂は女のように華奢な体つきをしてはいるが、一体どうやってこの穴をくぐり抜けたのか不思議だった。
 陽子が身体を捻ったり、縮めたり試行錯誤している最中に、真横の草の上に、赤い光が落ちているのが見えた。赤い光は、風に吹かれるように揺らめいている。
「石子さま」
 大きく開かれた戸の向こうに、石子が立っていた。潔斎の最中であるためなのか、電燈は消され、絢爛豪華な絵蝋燭が部屋の中に灯されていた。
「陽子。お前、ついてきたのか」
 口元には赤い紅が引かれ、首元まで、粉白粉を叩いた跡が見える。鬘(かずら)こそかぶっていないが、櫛を通した筋が見えるほどに鬢付け油をつけている。白髪の混じった固い髪を組紐で結び、背中に細く垂らしている。石室に入るのは、もう間近なのかもしれない。六十歳を超えている石子が、今は壮年の女性に見える。
「まさか、九堂まで連れてくるとはな」
「先ほど、ここに着いたんです。どうしても石子さまに、この羽織をお渡ししたくて」
 橙色に金糸の走る羽織が、まるで火の鳥のように輝いている。
「大事な日に、石子さまがいつも着ていた羽織です。きっとこれは、大切なお衣装なんでしょう? どうしても気になって、家から持って参りました」
 大事な潔斎の最中に横入りし、怒鳴りつけられることも覚悟していた。顔をあげると、石子は口元を緩め、羽織を眺めている。目の前にいるこの女性はまぎれもなく、記憶もない頃から共に暮らしてきた祖母だった。

 

「これは、私の母が持っていたものだ。私はこの羽織を着ながら、当主としての自分の覚悟を確かめていた。この羽織は、今日からお前にあげよう。もう私には、必要のないものだ」
 もうお前には会わないと、言われているようにも感じた。夜風の寒さからではなく、陽子の体は震えた。
「そのお着物では、身体が冷えます。この羽織は、石子様のお衣装として持っていてください」
 この羽織をまとう石子は、まるで火を背負っているようにも見えたものだった。
「衣装なら、もう十分整っている。私はいつお迎えがきてもいいように、毎日死装束を着ていたのさ。ただ、この世にいるうちにお前と言葉を交わせてよかった。先に、黄泉の国で待っている。お前も後から来い」
 陽子は頷いた。石子が、九堂に目で合図をしているのがわかった。別れの合図だ。
陽子と九堂は屋敷を離れた。陽子は俯きながら、前も見ずにただ寅の道に向かって足を動かした。九堂は数歩遅れて歩いた。火虫は二人の前に伸びる道を頼りなく照らしていた。外気は十度を下回っていたが、陽子は石子の羽織を見にまとうことなく、手に抱いたまま帰宅した。
 朝になった。帝の崩御のために、初等部は休校になっていて、父も母も家の中にいない。いつも騒がしい妹たちは、幼稚舎敷設の保育所に連れられて行ったようだ。
 庭に出ると、祖父と父の弟子である山伏たちが、山下りの修行のために群れをなして支度をしているところだった。その中に、九堂の姿もあった。兄弟子たちと話をしている。
 陽子は山伏の群れを避けて、庭の脇を通り抜けようとした。目的もなく、足が勝手に、寅の道の方へと向かっていく。寅の道へと続く入り口に手をかけて、身体をかがめた。
「陽子さま」
 九堂の声がした。声の方を振り返ると、山伏の白装束に身を包んだ九堂が立っていた。適当な言い訳が何も思い浮かばず、陽子はぼんやりと、九堂を黙って眺めていた。九堂はそんな陽子の様子を伺うような一呼吸をおいてから、静かな声でこう言ったのだった。
「もし土の中に入ってしまっていたら、お祖母様を訪ねてはいけません」
 九堂の前に立つと、何もかも見透かされているような気分になる。陽子自身でさえもわからない、自分の心を先回りされているかのようだ。その聡さを、今はただ憎く感じる。
「そんなの、わかってるよ」
 陽子は寅の道に飛び降りた。気候の良い朝であっても、この地下道の中は永久に夜だ。昨夜、火虫の案内でこの地下道を進んだとき、自分は駆け足になっていたのだろうか。昨夜は連れ合いとなった九堂と言葉を交わす間もないほど、この道はすぐに自分を宮中へと導いたはずだが、今はどれだけ早く走っても、なかなか出口は見えてこない。昨夜遭遇した人為の死骸も、どこにも見当たらなかった。
 祖母は、もう石室に入ったのだろうか。記憶をたどり、昨夜虎落(もがり)を行っていた屋敷を探したが、どこにも見当たらない。ただ、紙屑や獣の死骸のようなものが、周辺に散乱している。若い隼人が、長い箒とごみ袋を持って掃除をしている。かすかに、なにかが燃えたようなにおいが残っている。
 すぐそばに、真新しい石室がそびえていた。石室は元からあった小さな丘の膨らみを利用して造られ、門に似た石室の口の両端には隼人が立っていた。
帝が入れ替わるたびに、新たな宮廷が建てられる。それは同時に、先帝の時代に使用していた宮廷は、必ず放棄されることを意味している。
 陽子は、石室の壁を指で触れた。この奥には羨道と呼ばれる、土の中へと続く道がある。帝と祖母は羨道を通り、すでに室の中に入っている。帝は息をしていないが、祖母は、まだ息をしているだろうか。土に耳を押し当てる。冷たい、土の香り。
その時、かすかに祖母の声を聞いた気がした。何事かを話している。
(なにか、叫んでいる?)
「ここで何をしている」
 見上げた先に、父の顔があった。その隣に、九堂もいた。
「みっともない真似をするな。一族の女が、幡となった当主を悼んでいるという誤解を受けたら、どのような言われを受けると思っている。今すぐ、立て」
 陽子は糸で吊られたように立ち上がった。今は、頬についた泥の汚れをぬぐうことすら許されていないように感じる。
「おまえ、またついて来ていたの?」
 陽子は九堂を睨みつけた。その言葉に、父が反応したように見えた。
「お父さまに告げ口したの?」
「陽子さまは幡を継ぐことができる、貴重な後継です」
 九堂は頷くことも否定することもなく、ただそう述べた。その素っ気なさに、山伏らしい冷淡さを感じた。立身出世を目論む山伏連中の中にいて、祖父と父の手先となって生きる九堂が、自分の味方であろうはずがなかったのだ。
「昨夜石室について来てくれたのも、全てお父さまの命令だったのね」
 九堂は何も言わなかった。それ以来、九堂と二人で話をすることはなくなった。
 実はこの時、父と九堂は全くの偶然で陽子に行き合ったことが分かったのは、九堂が「土中の責苦」という仕置きを受けたことを、後で大叔母から聞いたからだった。
「土中の責苦」とは、首まで土に埋められたまま三日間過ごすという、最も重い仕置きの一つだ。体温を奪われ、死肉と勘違いした虫から体の肉を齧られる。生きたままでも土の中に入ると、体の分解が始まるらしい。激痛が身に走る最中、身動きすらとることができない。破門を言い渡された者は、土中の責苦によってのみ再び入門を許される。「一度死んで、生まれ変わる」という意味あいも、この仕置きには含まれているようである。
「破門か、土に入るか」
と問われて、九堂は
「土に入ります」
と答えたようだ。
 この責苦によって、九堂の顔つきが大分変わってしまったという話だった。確かに、少年らしい膨らみを持っていた頬がいくらか削げて、目元が鋭くなったようにも思った。着物からのぞく手足には、あざに似た傷痕がまだら模様になって沈着している。
 陽子が初等部を卒業し、玉笛女子学園に通うため玉櫛寮に入ることになった日も、父と共に見送りの列に九堂がいることは気づいたが、視線を交わすことはなかった。

(つづく)

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