紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 玉櫛寮で同室になった紙子は、本当に普通の女の子という感じがして面白い。
「地方の技師の娘と、磐座(いわくら)家の娘を同室にするとは」
 父はいまだに、この部屋割りについて不満を持っている。
 陽子にとっては、普通の公立小学校に通っていたという紙子の話し方も新鮮だった。第一、将来の夢を陽子に聞いてくる時点で、初等部にいる人間たちとは、全く異なる育ち方をしてきた人間なのだ。
「陽子は家の仕事以外にやりたいことないの」
 入寮早々、紙子が素朴に尋ねてきた時、布団に入ってからも笑いが止まらなかった。そんな自分の様子に気づくこともなく、紙子はすでに寝息をたてていた。家の仕事以外の選択肢があるなら、普通この寮には入っていない。
 
 石になるには、「波立たぬ心」が鍵となる。幡となり、帝の怨霊を永久に鎮める石となるためには、石室内部の寒さや、虫に心惑わされては務まらない。仮に石となり続ければ、永久の命を得るとも言われている。人の体と、波立つ心を失い、何を命と言うのかは、今の陽子には分からない。
 職能の顧問である遠部(おんべ)先生は、恐怖を感じる神経を萎えさせようとしているようだ。宮中に棲息する虫を「従わせる」ために、一体一体と向き合わせる。一匹の虫は単なる虫でしかないが、群れとなると、人間と同じように、それぞれ個性があるようにも感じる。体の大きさや、色、歩き方、食事の取り方まで、同じ個体はない。
 殺し方も練習する。腹を潰して死ぬ虫は存在しない。彼らの命は、やはり頭部に詰まっているようだ。
 落ち葉の下から這い出てきた鋏虫(ハサミムシ)を、ローファーの裏で踏みつけた。足を上げると、何事もなかったかのように、するすると動き出す。死肉を食い、地下で暮らす虫の体はゴムのように柔らかい。潰すのが難しい。そのうちに、この虫を殺さなければ、自分が殺されるのだと思うようになる。
 石室に閉じ込められた祖母は、何を叫んでいたのだろうか。この柔らかな虫との戦いに勝つことができたのだろうか。祖母の顔が、自分自身の顔にすり替わっていることに、陽子は気が付かない。
 石室に閉じ込められて、上から蓋をされる。まだ生きている自分は、土の下で何に負けるのか見てみたい。職能の指導が終わった後で、陽子は「実験」を始めた。
 初めは、地下道にいる虫を手当たり次第に捕まえて、紙箱に閉じ込めた。ふと地下道で遭遇した人為を思い出し、ついでに人為も紙箱の中に入れた。翌朝見ると、朝露で濡れた箱は食い破られて、虫は一匹残らず逃げていた。体が穴につかえて、飢えて死んでいたのは、人為だけだった。木の根のように乾き切った人為の顔を見た時、祖母の死に顔を見た気がして、陽子は吐いた。
 陽子が暮らしていた家の蔵には、空き瓶や壺や食器が使いきれないほどある。太平洋戦争の折に、当時の家人たちが家のものを全て蔵に移動して、そのままになっている。仮の石室を作るために、中のものが逃げられない仕組みを作らないとならない。虫籠では、小さな虫は空気穴から容易に逃げ去ってしまう。身体が大きいものばかりが籠に残る。
 蔵の中を物色していると、大小の漬け瓶が目に入った。大きな硝子蓋をとると、かすかに酢の香りが鼻をつく。瓶の胴の部分を、両手でそっと持ち上げてみる。現代の硝子よりも、かなり重い。戦前の、物資が豊富にあった頃に製造されたものに違いない。百年近くも蔵の中で放っておかれていたのに、隅に黒かびの一つもない。自宅で作った、酢漬けの野菜などを保存していたものだろう。代々、山伏系統の男ばかりが婿に入る家であるために、人の出入りは多い。山伏の連中が家に集まった際に使用する、詰所と呼ばれる部屋は、寺のお堂くらいの広さがある。正月に彼らが集まった際の頭の数を思い浮かべれば、これほど多くの漬け瓶が家の中にあったことも納得できる。大中小の大きさを考慮せずに数えれば、四百以上はありそうだ。
 大きな蓋は、下から押し上げても容易には持ち上がらなそうだ。風呂敷のような布で硬く縛れば、蛇や節足動物でも抜け出すことはできないだろう。上から、風呂敷を外し蓋をとる者が現れない限り。
 一番大きな瓶は、人の頭よりも大きい。陽子が顔を入れても、首の下まで入りそうだ。逡巡してから、陽子は中くらいの漬け瓶を手に取った。ナイロンの安っぽい学生鞄に、中くらいの漬け瓶の胴はすっぽりと収まった。
 家紋の彫金が施された桐箪笥には、やけシミのある風呂敷が幾つもあった。特にやけシミの強い風呂敷を数枚取る。それも瓶と共に、玉櫛寮へと持ち帰った。
「寅の道」を通れば、三十分ほどで寮に着く。出口に向かう緩やかな坂を上る時、電燈のスイッチを切った。

 地下道は、昼でも夜でも電燈を点けておくのだ。百年以上前に掘られた古い道なので、電燈を点けておかなければ、虫が湧いて足の踏み場すら無くなる。
 祖父が婿入りしてすぐ、台風のため停電になった。暗いままこの寅の道を通って家に帰ろうとしたところ、影がざわざわと動く様子があった。地上の光が完全に届かなくなってから、懐中電灯を点けた時、地面、壁、天井と、びっしりと虫がはりついていて仰天したという。地面には、祖父の足型に沿う形で、節足動物が触れていた。驚いた祖父が足を持ち上げて違う場所に足を移した途端、虫がわらわらと動き、祖父の足の行方を読めなくなった虫たちが、祖父の足にずぶずぶと踏み潰された。
「焦らずにまっすぐ歩いておれば、虫を潰さずに済んだのに」
 宴席で機嫌がよい時に繰り返し話す、祖父の笑い話だ。
 祖父も山伏の家系であったので、虫には耐性のある人であったはずだ。虫で食ってはいけないのは、なめくじと蝸牛(かたつむり)だけだと話しているのを、聞いたことがある。その祖父でさえ、虫の群れには恐怖を煽られた。
 石室に入った祖母は、今も虫の群れの中に身体を埋めている。いずれは母も、自分も、電燈のない地下の世界に行くことになる。

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