紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 電燈のスイッチを入れた瞬間に、祖父の話は、ただの戯れ事ではなかったことが分かった。灯りに照らし出されたのは、見慣れた寅の道ではなく、虫たちの輝く背中だった。
 むかでやハサミ虫、蜘蛛といった節足動物は壁にぴたりとはりついており、ゴミムシといった甲虫類は、まるで取れかけのかさぶたのように不恰好に移動している。古い家のようなにおいがする。虫は、普段自分たちが暮らしている環境のにおいを背負ってやってくる。
(私は生まれた以上、最後にはこいつらと対決することが決まっている)
 食堂からくすねた銀色のスプーンで、壁に伝う虫の群れを削ぎ落とした。体が大きいものも、小さいものも、瓶の底に落ちていく瞬間は体を丸めている。体が底へ打ちつけられた瞬間に、すぐさま壁をよじ登ろうとする。蓋を上から押さえて、渦のように振ると虫たちはばたばたと底に落ちてゆく。
 やがて、喧嘩を始める。あたかも、目の前の障害となっている相手をうち倒せば、自分が外に出られると勘違いしているようにも見える。透明な瓶の外側から、その様子がはっきりと分かる。
 地下道にいるような虫は、ふつう生者に襲いかかるようなことはない。本来は、自ら手を下さずとも、地に落ちる死の栄養によって口を潤す者たちであるからだ。
 瓶を振りながら、地下の虫たちをこそげ落とす。地上では生きられないような小さな蛇も、瓶の中に閉じ込める。
 自分が最後に閉じ込められることになる石室の様子を、部外者として目で見ておきたい。瓶の中程まで虫で埋まってから、ふと手が止まった。
(この瓶の中には、私がいない)
 電燈を点けたまま、地上に出る。宮中から玉笛に流れる川のほとりで、ちょうどいい大きさの人為を捕まえた。これは、大きなねずみくらいの大きさだ。
 背を粗雑に掴まれた人為は、陽子の手に歯をたてた。血が流れても、陽子の体に変化は起きない。そういう体質なのだ。陽子の祖母も母も、人為に噛まれても何の変化も起きない。祖母の監視のもと、人為にわざと噛まれたこともある。人為は「自然物が人に為る」呪いを抱えた存在だが、陽子は「人が自然物に為る」という逆転した呪いを抱えていると言えるからかもしれない。
 陽子は自分の形代として、黒く蠢く瓶の中に人為を押し込んだ。即座に上蓋を押し上げる猛烈な抵抗があり、陽子は硝子蓋を強く押し込んだ。突如放り込まれた地獄から、無我夢中に抜け出そうとする人為の姿は、そう遠くない未来の自分の姿でもある。無駄な希望を抱かせないために、強く、強く蓋を押さえる。
 時間を忘れて蓋を押さえていた。自分の足下さえ覚束ない程に日が落ちたことに気がついた時には、蓋の抵抗はなくなっていた。見ると、闇が自ら流れ形を変えるように、瓶の中で争いが起きていた。この国の戦前に、職人らの美しい手作業によって生まれた瓶の青い肌が、すでに食い破られた虫たちの体液で黒く汚れている。命の誕生はどれも健康で美しいはずだが、死ぬことはいつも汚い。
 手早く風呂敷で瓶を包み、蓋の上で固結びをした。まるで内なる踊りを抱えたように、ざわざわと震える瓶を抱えて、あてもなく歩く。風が吹く。急峻な大山から吹き下ろす風を、大山おろしと宮中では呼んでいる。水のように清らかで冷たい突風から身を守るように、陽子は身を屈めた。
 寅の道に入る周辺の場所は、黙認された私有地のような扱いになっている。除草を免れた草の葉の陰に、この瓶を隠した。
(誰にも、見られませんように)
 誰にも話すことができない、自らが内に抱える苦しみの表れでもある。発見されたら困るような日記をつけたことはないが、ある意味でこの瓶は、自分自身を何よりも表現するものだと思う。
 翌朝、包みを解くと、瓶の中の争いはまだ終わっていなかった。斃れた虫が、底の方にうっすらと積もっている。その上で、湿った戦いが続いている。
 それから、手が空くと毎日瓶の様子を見に行った。手が空くと、というか、何も手がつかないのだ。瓶底に積もる死骸が地層をなしている。最後まで生きるのではないかと考えていた哺乳類のねずみは、わりと早い段階で動かなくなった。想像を超えた力比べが起きているようだ。理由のつかない、笑みがこぼれる。

 


 徐々に瓶の蠢きは静かになっていく。死骸が中ほどを過ぎた頃になると、体液と熱で曇って中の様子が見えなくなった。
 ある日、陽子がいつものように風呂敷を解くと、硝子瓶の蓋がぱかりと外れた。急な力で押し上げられた硝子蓋は宙に飛び、地の上で砕けた。
 力の主は、最後に瓶に閉じ込めた人為だった。
 瓶に添えた手の端を、人為がぶるぶると震えながら食いちぎった。肉まで削がれ、瓶が手から滑り落ちた。割れた瓶から死骸が放たれ、落ち葉のように散った。人為以外、生きて動くものはなかった。
「お前が、勝ったの」
 人為が油に塗れた顔を持ち上げた。それから、食い残した死骸の山に顔を埋めて食っている。人為は謎に包まれた存在だが、死骸を食うものを見たのは初めてだった。
 大山おろしが人為の背をなでる。骸の殻は季節外れの枯れ葉のように、乾いた音をたてて地の上をどこまでも転がっていった。
 食い物を失った人為は、母のように傍に立つ陽子には目もくれず、暗い森の奥へと歩き出した。目の前には烏山が聳えている。
 人為が生き残ったのは、陽子にとっては意外に思えた。自分とは逆転した呪いをもつ人為は、暗い箱の中で斃れ、陽子自身の死に顔を見せてくれるはずだった。
 何かの間違いだろうかと、陽子は再び寅の道を使い、実家の蔵から漬け瓶を持ち込んだ。何度試しても、瓶の蓋を開き顔を出すのは人為だった。そして何があるのか、彼らは烏山を目指して歩いていくのだった。

(つづく)

関連書籍

マーサ・ナカムラ

雨をよぶ灯台 新装版

思潮社

¥2,200

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

マーサ・ナカムラ

狸の匣

思潮社

¥2,200

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入