人生がときめく知の技法

第2回 悩みの総合カタログ、それが『人生談義』

■ 140字で先生のことを語ってみると……  

山本 さて、いよいよエピクテトス先生の話に入っていくわけだけれど、ごく簡単にいうとどんな人かな。できれば140字くらいでお願い。

吉川 え、なにその制限(笑)。まあ、大まかにいえば西暦50年ごろのローマやギリシャで活動した人で、奴隷の身分から哲学教師へ、という数奇な運命を辿った人だよね。彼の生涯については実はよく分かっていないらしい(★1)。

山本 『人生談義』は、エピクテトス先生が学校で弟子や知人と交わした会話を記録したもの。でも、本人が書いたのではない。エピクテトスは、かのソクラテスと同じように、なにも書き残しませんでした(★2)。

吉川 この本の原型となったのは、弟子のアリアノスがどこに発表するためでもなく、あくまで覚え書きのために師との会話をしたためたノートなんだよね。それがエピクテトスの死後、なぜだか「流出」し、おおやけに刊行されてしまったというわけ。

山本 びっくりしたアリアノスは、これは先生の公式の作品ではなく自分の覚え書きであり、もし変なところがあればその責任は先生にではなく自分にある、等々と弁明の手紙を書いた。いまではこの手紙がそのまま『人生談義』の序文になっちゃってる。

吉川 おもしろいよね。で、この『人生談義』という本、前にもいったけど、古代ギリシャ時代の人生相談のような内容で。

 

■ スティーヴン・セガールばりの切れ味

山本 「なあんだ、人生相談か」と侮るなかれ。驚くべきことに、愛、お金、仕事、人間関係……そこには我々が日ごろ思い悩むようなことなら全部そろっているんじゃないかと思えるほど、たくさんの悩み事や心配事が記されている。いわば、古代から伝えられる「悩みのカタログ」だ。

吉川 さらに驚くべきことに、エピクテトス先生が繰り出す回答の数々が、じつに的確なんだよね。まるで次々と襲いかかる相手をバッサバッサとなぎ倒していく空手や合気道の先生みたい。スティーヴン・セガールを思い出すね。

山本 昔も今も、人間の悩みは根本的にはそれほど変わらないものなのかもしれないね。もちろん、なにしろ2000年前のギリシャ・ローマの話だから、意味のよくわからない悩みというのも出てくるよ。たとえば、「先生、私は便器を捧げ持つべきですか」とか。

吉川 なぜに便器。謎だ。

山本 読んでいくと、便器を捧げ持たないと殴られて食いはぐれるとかなんとかいっている。いまでいえば、会社の飲み会に出るべきかとか、上司におべんちゃらを使うべきかとか、そういう類いの相談なのかもしれないね。

吉川 うん、その辺は我々が現代の事例や言葉に適宜おきかえて考えていこう。ちなみにエピクテトスは、もし打算的に考えるなら臆せず便器を捧げ持つがいいって答えているね。

山本 でも生徒は「しかし私は捧げ持ちたくありません」と。

吉川 面倒くさいやつだな。じゃあなんでいちいち相談するんだ……とはいえ、彼も悩んでたんだろうね。便器を捧げ持つべきか持たざるべきか、それが問題だって。それで先生に聞いてみたと。

山本 うん。エピクテトス先生は、最終的にそれを決めるのは君であって私じゃないって答えてるね。自分を売る値段を決めるのは君自身だと。

吉川 自分自身を売る値段は人によって違うからってね。

山本 とまあ、そんな具合に、『人生談義』は古くて新しい悩みごとを集めた悩みのカタログであり、それらにたいして快刀乱麻の返答を与える先生の百人組手の記録というわけ。これを読みたくならない人なんているのだろうか?

吉川 いや、いない。そこに目をつけてか、いまから100年ちょっと前のこと、明治の終わりころから大正にかけての日本でも、エピクテトスの翻訳書が何種類か出されているんだよね(★3)。

山本 夏目漱石の『吾輩は猫である』のなかでも、苦沙弥先生がエピクテトスを読んでいる(あるいはろくすっぽ読んでいない)と、猫が報告していたね。時代が大きく変化してゆくなかで、当時の人びともエピクテトスに手がかりを求めていたんじゃないかな。

吉川 そしていま、我々もエピクテトスに手がかりを求めようとしている。我々もまた、時代が大きく変化してゆく時期にエピクテトスを読んだ漱石や苦沙弥先生たちと同じ場所に立っているのかもしれないね。

山本 人間に悩みは尽きないからね。次回からは、数々の悩みごとにたいしてエピクテトス先生が与えた解答を紹介していこう。

吉川 それを通じてエピクテトス哲学の骨格、つまり人生がときめく知の技法を明らかになるはず。

★1――エピクテトスについては、以下の文献が参考になります。『世界の名著13 キケロ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』(中央公論社、1968)の解説と年譜(後に『世界の名著14』(中公バックス、1980)として再刊)。鹿野治助『エピクテートス――ストア哲学入門』(岩波新書、1977)。比較的近年のモノグラフとしては、A. A. Long, Epictetus: A Stoic and Socratic Guide to Life (Oxford University Press, 2002)があります。

★2――エピクテトス先生の教えを伝える文書は三つしか残っていません。『語録』『提要』『断片』と呼ばれるものです。いちばん有名で分量の多いものが『語録』で、そのダイジェスト版が『提要』。『断片』はエピクテトスへの言及を集めた資料集。これら三つの文書をあわせた邦訳がその名も『人生談義』という邦題で岩波文庫から出ています。この連載でも、三つをひっくるめて名の通った『人生談義』というタイトルで呼ぶことにします。『人生談義』には複数の翻訳があります。現在比較的手にしやすいのは岩波文庫版(鹿野治助訳『人生談義』上・下、1958)の他、中公バックス版(中央公論社)などがあります。『人生談義』と訳されている書名は、古典ギリシア語でΔιατριβαι(ディアトリバイ)といいます。直訳すれば「談話」とか「語録」というほどの意味。「提要」はΕγχειριδιον(エンケイリディオン)。これは「手引き(Manual, Handbook)」という意味です。原文は Epictetus I and II  (Translated by W. A. Oldfather, Loeb Classical Library, Harvard University Press, 1925-1928)の第I巻にDiscourses, Books 1-2、第II巻にDiscourses, Books 3-4とその他の文章が入っています。本稿でも、原文を参照する場合は、この版を用いています。

★3――例えば、国立国会図書館デジタルコレクションで次のような邦訳書を読めます。『賢哲エピクテート』(斎木仙酔訳、東華堂、1903)、『エピクテタスの教訓』(稲葉昌丸訳、浩々洞、1904)、『エピクテタス遺訓』(高橋五郎訳、玄黄社、1912)、『エピクテータス語録』(佐久間政一訳、文明書院、1923)。本によっては、英訳からの重訳であったり、原本が明記されていないものもあります。

 

 

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