昨日、なに読んだ?

File16. 大崎清夏・選:からだを使って読む本

河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』、村上慧『家をせおって歩いた』、森田真生・文/脇阪克二・絵『アリになった数学者』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【 大崎清夏(詩人)】→松江哲明(映画監督)→???

 詩にはいろんな書き方がある。あたりまえなんだけれど、最近そのことをよく考える。詩人の身体の使い方や、その身体をめぐっている思考の流れ方や、五感の使い方、喜怒哀楽の調子、さまざまな道具の使い方。そういうことのひとつひとつがすべて、詩の一行一行に作用する。ディキンソンみたいに、一生涯を半ひきこもり生活に捧げたまま宇宙と繋がれる人もいるし、ななおさかきみたいに、どこにもとどまらずに山や空や海や砂漠を通りぬけて宇宙に向かっていく人もいる。 
 机の上で書くことばと、歩きながら浮かんでくることばは、何かが決定的に違う。しかもことばは、全速力で走ることもできる。河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』(いぬのせなか座)に収められた詩「一八〇秒」を読んでいると、私の身体は遅刻ギリギリで通勤路をダッシュしているスーツ姿の男に変身してしまう。

 それにこの詩集は、もっと新しい身体=ことばの使い方も提案していて、各ページに配された色やかたちが、ことばと一緒にページの隅っこへ出かけたり、好きな場所でジャンプしたりする。原発事故を契機として書かれた「代替エネルギー推進デモ」という長い詩を読んでいるあいだは、ページは停電の続く家のように、真っ黒になる。色やかたちは、ことばと共鳴したり、不協和音を奏でたりしながら、生活のなかで感じる音や光のように、また無音や暗闇のように、身体に差しこんでくる。
 ことばと一緒に歩くとき、ことばには歩行のリズムがしみいる。 村上慧『家をせおって歩いた』(夕書房)のことばは、ずーっと歩いている。もちろん村上さんだって、書くときには立ち止まって、座って書いたはずなのに。
 さまざまな場所へ家を運んで生活するために、村上さんは自分の足で歩くという移動方法を選んだ。そこでは車の運転席に座っていたら絶対に起こらないことが起こり、絶対に見えないものが見える。草が生えている。トラックに飛ばされそうになる。へびが潰れて死んでいる。知らない人に話しかけられる。そのひとつひとつの出会いが、新しい思考方法になる。
 でも村上さんはたまに、車にも乗る。歩く最中は車が大嫌いなのに、乗るとその快適さにびっくりする。ここは私が心のなかで線を引いた箇所。反発するふたつの感覚が、ひとつの身体で鉢合わせることはある。そんなとき、私はすぐどちらかを捨てようとしてしまう。だけど身体はひとつしかないのだから、ほんとうは無理に辻褄を合わせなくてもいい。その反発を味わえばいい。 
 森田真生・文/脇阪克二・絵『アリになった数学者』(福音館書店)は、人間の身体を脱ぎ捨てて、アリの身体と五感で数をとらえる絵本。ことばは、歩いたり走ったりするだけじゃなくて、動物になるのも得意だ。子どもの頃、岸田衿子ほか『どうぶつしんぶん』やマリー・ホール・エッツ『わたしとあそんで』を読んで、どうしたら動物の仲間になれるか考えていた。いまも、ずーっと考えている。たとえば猫の、たとえばカメの、たとえば鹿の身体には、どんなことばが宿るんだろう? いつか、動物たちのアンソロジー詩集をつくりたい。『アリになった数学者』は、そのひとつの糸口を教えてくれた気がして、嬉しかった。 

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