■託児所のアナキズム
ブレイディ そのときの雪のシーンが、本当は性的なシーンであるはずなのに、すごく子供のように見えたんですよ。それで、無理やり自分の本の話に戻すと、『子どもたちの階級闘争』がまだ出る前の、去年、ラバンデリアで平井玄さんと3人でトークイベントをしたときに、平井さんが、「やっぱり僕は、君の書く物で一番好きなのは託児所の話だな」と言って。
栗原 『アナキズム・イン・ザ・UK』の話ですね。
ブレイディ そう。で、平井さんが、あの本は『アナキズム・イン・ザ・UK』というタイトルのくせに、全然アナキズムについて論じてないって笑ってらして。でも、託児所の子供たちの何とも言えない自由で、やりたい放題で、めちゃくちゃ悪い子とかもいるんだけど、あれがアナーキーであるということじゃないかと。あれがアナキズムなんだよねと。
栗原 子供こそが一番アナーキーなんだと。
ブレイディ そう。その話になって、あれが結局、『子どもたちの階級闘争』のあとがきに繋がっているんですよ。結局、あれがアナキズムだったんだなと。
■愛と無償の心
ブレイディ 私は栗原さんくらいの年齢のときにこの本(『花の命はノー・フューチャー』)を書いて、そのあとに、底辺託児所に行って、ものすごく辛かったんですよ。やっぱり日本人的な道徳心から抜けていなかった部分があるから、いったいこれは何なのだと。どうして、こういう人たちが、どこからどうやってこんなにたくさん出てくるんだというので、政治にすごく興味を持ち始めたし、全面的には賛成できないまでも、これは何なんだろうなという、それが言葉にならなくて。
それでしばらく、私もカトリックだから、「愛かな?」とか思うわけですよ。これは愛かな? やっぱり愛なんだろうなと。どうしようもないと一見思えるような人たちでも、みんな一緒にやっているというのは、これはみんなの愛があるからとか……。
栗原 必然的に感じてしまう。
ブレイディ やっぱりこれは、ジーザス・クライストの言った愛なのか、これぞ普遍の愛なのか、みたいに思っていたけど、それだけでもなさそうだと。それで、平井さんが「あれこそアナキズムだよ」と言ったときに、平井さんは子供たちの姿がアナキズムと言ったけれど……。
栗原 カオスのように動いている姿を。
ブレイディ でも、それは子供だけじゃなくて、あそこの場合は親もそうなんですよね。だから、あれこそがアナキズムなんだろうなと、本当に思った。
栗原 そうだと思いますよね。幸徳秋水って、もともと孟子を勉強するんですけど、「仁」という発想があって。子供が古井戸にヨチヨチ歩きで、ヘロヘロッと井戸に落ちそうになっていたとしたら、見ず知らずの人でも絶対に手を差し伸べて、バッと救おうとしてしまう。仮に、手を差し伸べたことでじぶんが井戸に落ちてしまったとしても、動いてしまうものなのだと。
しかもそういうとき、子供を救ったからといって、その両親が金持ちで金をもらえるから救ったという人なんていないですよね。我が身顧みず、無償の心ですよね。なんの得にならなくても、子供が死にそうになっていたら動いてしまうものだと。幸徳秋水は、その「仁」を「相互扶助」っていうアナキズムの思想につなげていったりするんですけど。これって、損得の発想をぶち抜いて、ガムシャラに動けちゃうってことですよね。ただ良いひとってだけじゃなくて、世間の常識なんてふっとばして、ある種、モンスターみたいに動いてしまうってことでもあるし。
そういう所って、子供自身もそうだし、それを見た親だったり、それを見ている大人たちも同じかなと思うので、そういう意味で、ブレイディさんが、子供だけでなく親もアナーキーになっているという感覚って、そのとおりだなと思いました。
ブレイディ 私の本に出てくる託児所のお母さんたちは、伊藤野枝だらけじゃないですか。でも、別にみんなそれでよしとして生かされている。誰からも何も言われないし、国からお金も出ていたし、それで生かされていたあの感じというのは、日本人の私からすると、「なんで?」と思うわけじゃないですか。日本人の感覚でいえば、「働け!」と(笑)。でも、それでも彼らは生かされていてよしとされているあの感覚というのは、なかなか……。
栗原 でも、動いちゃうということですよね。