人生がときめく知の技法

第16回 哲学の訓練(その四)

 

ひとつの基準、たくさんの練習

山本 前回は、心像を正しく用いるための訓練についてお話ししました。

吉川 エピクテトス先生は、練習あるのみ、とおっしゃる。とにかくたくさんの心像を吟味せよ、と。

山本 うん。その際に吟味の基準となるのは、権内(意志内)のものか権外(意志外)のものか、という区別だったね。

吉川 これまで何度も確認してきたように、エピクテトス先生の教えでもっとも大事なことは、自分の権内にあるものと権内にないものとを区別することだった。

山本 言い換えれば、自分の意志でどうにかできるものと、自分の意志ではどうにもできないものの区別だね。

吉川 事故や故障で電車が止まったとき、駅員さんにわめきたてる人っているよね。

山本 いくら文句を言ったところで、それで電車が動くようになるわけじゃないのに。

吉川 もちろん、大事な約束に遅れそうだとか、いろいろと事情はあるだろうし、誰だってそういう立場になったら困るだろうけど。

山本 でも、文句を言う暇があるなら、ほかになすべきことがあるのも明白だよね。

吉川 約束の相手に連絡をしたり、上司や部下に相談したり、次善の策を講じたり。

山本 それに、よしんば電車の遅延によって、後からカバーできない損失が生じてしまったとしても、それはもう、どうしようもないことではないか。

吉川 究極的に言えばそうだよね。

山本 だからこそ、不測の事態で自滅してしまわないように、われわれは普段から練習しておかなければならない。

吉川 権内か権外か、あらゆる心像にこの基準を当てがってみろ、そして権外のものなら棄て去れ、と。

山本 そう、ひとつの基準、たくさんの練習。

吉川 キャッチフレーズにできそうだね。

山本 トレーニングの機会は、それこそ日常生活のいたるところにありそうだね。

吉川 自分もあんなふうにイケメンだったらよかったのにとか、お金持ちだったらよかったのにとか、ほかの国で生まれたらよかったのにとか、いくら願っても願いがかなうことはない。

山本 その代わり、自分の意志で変えられることに時間を使えばいい。あるいは、自分の意志で変えられることを増やすのもいいね。

吉川 知識を得たり、技能を身につけたりすれば、自分でできることが増えるわけだ。

山本 そう。例えば、コンピュータで文章を書いていたら、突然動かなくなる。

吉川 あるある。なんべん遭遇しても心臓に悪い。

山本 ドキッとするよね。で、コンピュータやソフトのしくみを何も知らないと、そこでお手上げ。いくら呪いの言葉を吐いても、失われた文章は帰ってこない。

吉川 その場合、せめて覚えている範囲で書き直すのが次善の策かな。やれやれぐらいは言うにしても。

山本 同じ状況でも、もしコンピュータやソフトのしくみを理解していれば、書きかけの文章が裏側で自動保存されている可能性を検討できる。

吉川 私もそれで何度助かったか分からない。

山本 いまの例のように、同じ状況でも自分が知っていることやできること次第で、権内の範囲もちがうわけだね。

吉川 じゃあなにを学んだり身につけておけばいいかという話にもつながる。

山本 その点も後で検討することにして、いまは話を戻せば、権内か権外かというひとつの基準を十分使いこなせるように、たくさん練習せよということだった。

吉川 それがエピクテトス流の哲学の訓練なんだね。

山本 うん。

 

ニーバー先生とフランクル先生

吉川 エピクテトス先生の話を聞いていると、思い出す言葉があるんだ。

山本 なんだろう?

吉川 「ニーバーの祈り」ってあるでしょう?

山本 ああ、「静穏の祈り」とも呼ばれるものだね。

吉川 出所については諸説あるけれど、アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーが教会の説教で語ったとされている。

山本 後にはアルコール依存症を克服するための自助グループなどでも唱えられるようになっているね。

吉川 そうそう。こんな言葉。

 

神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。1

 

山本 じつにエピクテトス的、ストア的な言葉。

吉川 うん。両者の影響関係についてはわからないけれど、エピクテトス先生の教えと通底するものがあるよね。

山本 自分が悪癖に染まってしまったという事実を変えることはできない。それによって自分だけでなく大切な人たちを傷つけてしまったという事実も。でも、自分の行いを改め、これから未来を変えることなら、努力次第ではできるかもしれない。

吉川 うん。これが依存症克服の自助グループで活用されているというのも頷けるね。

山本 それを聞いて、私はまた別の言葉を思い出したよ。

吉川 聞こうじゃないか。

山本 ナチスの強制収容所から生還して『夜と霧』を書いたヴィクトール・E・フランクルという精神科医がいるでしょう。

吉川 おお、高名な「コペルニクス的転回」だね。

山本 そうそう。強制収容所の極限的な状況において、こんな回心が起こったと彼は言うんだ。

 

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。2

 

吉川 うーん。ずっしりくるね。

山本 人生になにかを期待しているかぎり、それは自分の外側、つまり権外のものごとに対してかなわぬ期待をかけているのと同じことだと。

吉川 そうであるかぎり、われわれは自分ではどうしようもない権外のものごとに翻弄されつづけると。

山本 逆に、自分のほうこそが問われているのだと考えなければ、自分の人生を生きることができない、そうフランクルは言うんだよね。

吉川 そして自分が問われているとは、自分の権内、意志内のものごとが問われているということだ、と。

山本 うん。こう考えると、奴隷であったエピクテトスと同様、フランクルもまた強制収容所で立派にストア哲学を実践した人だということになる。

吉川 二千年の時代がくだったいまなお、ストア哲学の教えは脈々と息づいているというわけだ。

山本 次回からは、そうしたエピクテトス先生の教えを支えるストア哲学について、もう少し体系的に学んでいこうか。

吉川 そうしよう。

 

1──ラインホールド・ニーバー『義と憐れみ――祈りと説教』梶原寿訳、新教出版社、1975年、題辞

2──ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』池田香代子訳、みすず書房、2002年、129-130

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