筑摩選書

教養の更新のために
大澤聡『教養主義のリハビリテーション』(筑摩選書)書評

PR誌「ちくま」6月号から文筆家/ゲーム作家の山本貴光さんによる、大澤聡『教養主義のリハビリテーション』(筑摩選書)の書評を転載します。人文学を中心とした教養がいまこそ必要なのはなぜか、平易に解説します。

「教養」と聞いてなにを連想するだろうか。例えば一九八〇年代のいわゆるニューアカデミズム・ブームで、なんの役に立つかと関係なく現代思想を面白がった人と、大学で自分の専門に関係のない教養科目は無駄だと感じた人とでは、印象もおおいに違っているはずだ。
 少し長い目でこの百年ほどの歴史を振り返ってみても、社会や技術を含む環境は大いに変化してきた。そうした中で教養もさまざまに形を変えてきた。『教養主義のリハビリテーション』という書名は、かつての教養を尊ぶ気風がいまでは廃れたという診断を反映している。そこからどう回復できるかというわけだ。
 著者は大澤聡さん。『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店、二〇一五)で厖大な文献を渉猟し、そのエッセンスを畳み込むような文体で高密度に論じてみせたのは記憶に新しいところ。その後も三木清の論集三部作(講談社文芸文庫)を編み、『現代日本の批評』(共編著、講談社)や『1990年代論』(編著、河出書房新社)では歴史を眺望、マッピングする才を発揮している。大学で教鞭をとる一方でゲンロンやテレビなどでもご活躍の俊英である。いまの世には珍しく対象に鳥の目と虫の目の双方から迫ろうとする、それこそ教養の人だ。
 本書で大澤さんは三つの対談と一つの論考を通じて教養の過去と現在と未来を検討にかけている。対談の相手は鷲田清一(哲学)、竹内洋(教育社会学)、吉見俊哉(社会学)のお三方。議論の背景にあるのは、明治から現在にいたる日本における知的な環境の変化だ。古くは教養とは、文化の受容を通して自らの人格を向上させるといったエリートの修養であった。時代が下るにつれて、教育と出版を通じて知の普及、大衆化が進んだ。教養は万人に開かれ一見言祝ぐべき状況だが実際にはどうなったか。皮肉なことに教養の価値は見失われた。
 かつての教養主義の中核を担っていたのは、文学や哲学を中心とする人文書の読書だ。昨今人文学は、なんの役に立つか分からないと見なされることも多い。またインターネットやスマートフォンの普及に伴い、読書は動画やゲームその他の各種コンテンツと並ぶ選択肢の一つになった。知りたいことがあればネットを検索すればよいのだから、わざわざものを覚える必要もない。無駄を退け合理性や効率をよしとする風潮もこうした状況を後押しする。もはや教養などなくてよいのではないか。
 そうは問屋が卸さない、というのが本書の主張だ。例えば、仕事の現場では、日々さまざまな意志決定を迫られる。関連する情報やデータは厖大にあり、そのままでは情報の海に溺れてしまう。そんなとき必要なのは、ものを見るためのフレーム、適切に取捨選択する基準を自分で設定することだ。そのためには特定の専門分野や、目先の有益さだけに目を奪われているのでは足りない。どうしても総合的・横断的な判断が必要となる。
 例えば、原子力や自動運転車やAIといった技術を応用する場面では、科学や技術のみならず、環境、生活、政治、経済、法律、人間の心理や生理なども関わってくる。次にどうなるか予想もつかない状況では、人間がこれまでなにをしてきたかという歴史や文化に関する見識も不可欠であり、自分たちが拠って立つ前提を疑って検討にかける哲学的思考も重要である。
 では、どうすればよいのか。各種アーカイヴを使いこなし、無数の情報から信頼に足るものを選ぶ目を養うこと。そのままではバラバラの断片を位置づけ総合的に捉えること。そのためには日頃から自分とは異なる発想に根気強くつきあい、脳裏にマッピングするとよい。その際、かつて教養主義で重視されていた幅広い読書と精読は、いまもなお強力なトレーニング法である。虚実が入り乱れた情報の大渦の中で正気を保ち、未来を展望するためにも、本書は役に立つ。

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