1936年生まれの蓮實重彥が同時代的に愛好し、他の誰よりも見たという「自負」のもとで書かれたというハリウッド「B級映画」の歴史書である。ジョン・フォードやハワード・ホークスやアルフレッド・ヒッチコックといった偉大な作家の名がほぼ登場せず(しかし完全に、ではない)、映画の「翳り」の側面――いわば「B面」に焦点を置いた、きわめて独創的な映画論である。むろん「B面」とはいえ、それが重要度において二次的であるわけではいささかもない。「B面」に固有の魅力が存在し、また、「B面」に注目することではじめて浮き彫りになる事実がある。本書によってきわめて見事な定式が与えられた映画批評の鍵概念――「ありきたりな映画」、「映画の保護機能」、「スペクタクル化」、「説話論的な経済性」、そして「B級映画」は、まさに映画の「B面」に丹念なまなざしを注ぐことによってはじめて明瞭に示されえたものだ。これらはいまもなお映画の思考において欠かせないものでありつづけており、その意味でも本書は、映画入門のための必携書であると言える。
自分もかつて本書を読んでこれら概念に触れたとき、一挙に視界が開けた思いがしたのだ。一見してちゃちな低予算のモノクロ犯罪活劇における「いい加減さ」の魅力がどこに由来するのか、ゴダールの面白さの歴史的位置とは、黒沢清や青山真治のあれら痛切な作品は実際のところ何と闘っているのか、イーストウッド映画の「普通さ」はどう貴重なのか。映画のこれらもっともデリケートな部分へのアクセスを、本書は可能にしてくれるだろう。『ハリウッド映画史講義』によって得られる認識は、たとえばタランティーノ世代によって映画の歴史のリミックスが始まった、というようなそれとはまったく異なる。映画史は、編集台でいかようにも操作できてしまう平板な情報の集積などではなく、まさに一回限り起きた崩壊と喪失の過程であり、その崩壊に抗ってなされた無数の闘争の跡を刻んでいるということを本書はふかく納得させてくれるのだ。
本書は、3章で構成されている。順番に「見どころ」に触れていこう。第1章「翳りの歴史のために――「50年代作家」を擁護する」は、「Ⅰ 1935〜1944」から「Ⅶ 1959〜1960」までの七節に分かれ、それぞれの年代で起きた「翳り」の過程が綴られる。蓮實は自分の書物をそれぞれ特定の映画を念頭に置いて書いたと述べているが、本書は「B級犯罪映画」をモデルにしたのだという。この章のただごとでない疾走感は、まさにそれらを彷彿とさせる。避けられない死へとまっしぐらに向かう登場人物たちの道行きが、きびきびと、叙情を一切排してドライに語り切られるのだ。
主な登場人物は、ジョゼフ・ロージー、エリア・カザン、そしてニコラス・レイ。大不況下のニューヨークでクリフォード・オデッツの左翼的な戯曲をロージーは上演し、それがきっかけでこの3人の人生の交錯がはじまる。映画作家としての将来を嘱望されることになる彼らは、その後、いったいどのような歴史に巻き込まれるのか。それが50年代にラディカルに進行した「撮影所システムの崩壊」であり、ハリウッドの「翳り」にほかならない。本章で詳細に示されるさまざまな要因によって「ハリウッド映画」という一つの表現領域全体が大規模な変質を被り、3人はその波に直撃されるのだった。
スリリングに進む迅速な報告体の文章は、また、著者ならではの大胆な批評的判断と分かちがたく結びついている。たとえば『真昼の決闘』(52)については、「脚本の図式性と監督ジンネマンの悪の魅惑に対する鈍感さが、作品を平板な寓意に閉じこめており、それに憤ったホークスに『リオ・ブラボー』(59)を撮らせたことがこの作品の唯一の功績だろう」(78ページ)。「新しいスターたち」と題された節では、「バート・ランカスター、カーク・ダグラス、ポール・ニューマン、ウィリアム・ホールデンらの新スターを自由に使いこなしうる監督は伝統的な作家の中には見当たらない。ランカスターはアルドリッチ、ブランドはエリア・カザン、ホールデンはワイルダー、ポール・ニューマンはリチャード・ブルックス、そしてジェームズ・ディーンはニコラス・レイと組んだときに最も輝くことになるだろう」(80~81頁)。この情報量の圧縮ぶりと、あらゆる要素を瞬時に選別してゆく研ぎ澄まされた反射神経には脱帽するほかない。
迅速に、そして緊密に展開する本章の記述がクライマックスに達するのは、ロージーら映画作家たちをかつて結びつけたオデッツの芝居の光景が、不意にもう一度ハリウッド映画に回帰するくだりにおいてであるが、どのようにそれが見出されるかは、ぜひ本文にあたって確かめていただきたい。
「B級」とは何か
遍在するカメラで群像劇を素早く縫い合わせていく第1章に対し、第2章「絢爛豪華を遠く離れて――「B級映画」をめぐって」は一人の登場人物をじっくりクロースアップするところから始まる。その人物はロバート・フローレー。ほぼ無名でありながら、映画版『フランケンシュタイン』を企画するなど少なからぬ貢献を果たしたこの映画人の足跡を導きの糸として、ハリウッド映画における「B級映画」とは何かが、こんどは「構造的」に解き明かされる。
「B級映画」とは何か。この定義および用法を一新したところに本書の大きな役割のひとつがあった。簡単に確認しておこう。この語は、一級、二級、三級というような作品の出来映えの良し悪しを示す指標ではない。映画ジャーナリズムにもこの点に誤解があるのだと蓮實は指摘する。「B級」とは、トーキー化以後にはじまった映画館の二本立て上映という興行形態と結びついている。はじめに、低予算で上映時間も短かった「B級」映画が、次に、「A級映画」が上映されるという枠組みがあり、それに応じて、「B級」用のプロダクションと「A級」用のそれとが分かれるという事実があった。いわゆる「ハリウッド撮影所システム」とは、「A級」と「B級」とが棲み分けつつ、総体として互いに支え合う体制および、そこで実現されていた稀有な均衡を意味する。
次に蓮實は「B級の帝王」ジョゼフ・H・リュイスを登場させ、「A級」の十分の一程度の予算で量産されていた「ありきたりな映画」の価値をあらためてあきらかにする。「われわれが「B級映画」をあえて語ろうとするのは、そうした種類の作品に時折り接しながら覚える途方もない呆気なさの印象に、深く揺り動かされることがあるからにほかならない。良質の「B級映画」がおさまっている不気味なまでの単純さというか、取りつく島のなさというか、何かに促されて追いかけようとはしてみても、その何かにとうてい追いつけまいと諦めざるをえないような素早さが、われわれを置きざりにしてしまうからなのである。単純であることの誇らしさに無防備で接してしまうことの眩暈とでもいおうか、そこに映画があられもなく露呈されてしまったことへの怖れを含んだ喜びといったものを感じてしまうのだ」(130~131頁)。
これまではっきりと言葉にされたことのない、まさにいわく言いがたい何かをそれでも言い当てようとにじりよっていく著者の姿勢が示されるくだりである。この種の魅惑に「深く揺り動かされ」た経験のある読者ならば思わず身を乗り出すほかないところだ。真剣な論究の対象となることのまれだったこの種の魅惑を意識的に主題とした点に本書の比類のない価値はある。しかも、それを時代遅れの骨董品としてありがたがったり、「ゆるさ」として趣味的に愛好するのとはまったく異なる姿勢において、今日の映画制作にも通じる実践的な観点からその有効性が評価されている点が特筆されるべきだろう。「「B級」の予算で短期間に撮られてしまうことで初めて輝きをおびる題材がある」(136頁)と蓮實は強調する。そして、ジョゼフ・H・リュイスを模範としたゴダールを、その輝かしい例証として挙げるのである。
「崩壊」がもたらしたもの
第3章「神話都市の廃墟で――「ハリウッド撮影所システム」の崩壊」はロバート・アルドリッチの挿話から始まる。その遺作となってしまった『カリフォルニア・ドールズ』(81)で女子プロレスラーたちがタイトルマッチを闘うラスベガスの会場でひときわ目を引く「MGM」の文字は何を意味するか。この問いに導かれて、こんどは「崩壊」がもたらした帰結が探られてゆく。その主張はきわめて明快だ。スタジオの崩壊は、まず、商品管理体制の喪失を意味する。30年代の大不況から第二次世界大戦期に至るまで、ニューヨークに置かれた本部の経営陣によって「ハリウッド」が保護されていたことの意義を本書は強調する。干渉をつづける「アメリカ合衆国」から「ハリウッド」を護る機能が失われることによって、いわば、映画は「裸で」社会と対峙しなければならなくなると蓮實は表現する。実際、撮影所システムの崩壊後、映画を知らない資本家たちに買収された映画産業は、自らのコントロールを失い、自堕落なスペクタクル化に流れて疲弊を進める結果にもなるだろう。かつてならば「B級映画」として撮られていただろう題材が、資本主義的要請との距離を保つことができずに不自然な大スペクタクルとなってしまう点がいかにも不幸であると指摘される。
さて、ではその美学的観点における帰結は何か。おそらく本書の主張のなかでもっとも人口に膾炙した点であると思われるが、それは「物語からイメージの優位へ」と定式化される。視覚的快楽を禁じて、物語を効率よく語ること。実は、それが「古典的」と呼ばれる時期のハリウッド映画の基本的な在りようだった。「あたかも映画が視覚的なメディアであることを否定するかのように、イメージの独走をおのれに禁じ、もっぱら説話論的な構造の簡潔さと、そのリズムの経済的な統御に専念するものがハリウッド映画だ[…]。事実、とりわけトーキー以後のアメリカ映画は、物語に従属することのない過剰な視覚的効果を抑圧しながら、見るという瞳の機能を必要最小限にとどめておくことで成立した、ほとんど不条理と呼ぶほかはない反視覚的な記号だったのである」(197頁)。
「崩壊以後」の映画が失ったのは、「説話論的な構造の簡潔さと、そのリズムの経済的な統御」、すなわち「説話論的な経済性」である。見えないものの恐怖を描く「サスペンス」は、その結果、SFXを駆使したスペクタクルとしての「ホラー映画」へと変質する。スローモーションの氾濫を良しとする風潮の下で、距離の劇を緊密に構築することを本性とする「西部劇」というジャンルは、ほぼ消滅してしまう。
保護機能なきあとの「アメリカ映画」
「終章」において、蓮實は本書を執筆した意義を自問する。過去の崩壊劇を、現在と関連づけるきわめて重要な箇所なので、長いが引用しよう。「この書物のめざすものは何だったのか。「翳りの歴史」を擁護するという姿勢の背後には、おそらく、抹殺への意志が働いている。それは、ハリウッドという神話的な都市の名前を映画の歴史から永遠に抹殺せずにはいられないという意志にほかなるまい。なぜ、抹殺させねばならないのかと問われるなら、それがいまなお維持しているかにみえる保護機能から、アメリカ映画を決定的に解放しなければならないからだといわねばなるまい。その保護機能が、いまやひとつの虚構にほかならぬという事実は誰の目にも明らかなはずなのに、反ハリウッドをとなえるインデペンデントの作家さえ、実はその保護機能をひそかに期待している。その期待が消滅したとき、アメリカ映画はおのれ自身の亡霊から解放されるだろう」(233頁)。
かつて「ありきたりな映画」を可能にしていた「保護機能」をあてにすることなく、それでも単純さの魅惑に充ちた「たんなるアメリカ」映画を構想することはいかにして可能か。この問いが発されてから四半世紀が経過しているが、むろんそれはいささかも古びてはいない。
この最後の問いもまさにそうだが、本書に含まれたさまざまな刺激は、後続世代の優れた研究成果を生んだ。第一章における「翳りの歴史」の延長線上において書かれたのは、上島春彦の『レッドパージ・ハリウッド――赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』(作品社、2006年)である。第二章の問題系を綿密な調査によって掘り下げたのは吉田広明の『B級ノワール論――ハリウッド転換期の巨匠たち』(作品社、2008年)である。先述した「結論」部の問いに関しては、『ロスト・イン・アメリカ』(デジタル・ハリウッド出版局、2000年)がある。青山真治、黒沢清、安井豊、阿部和重、塩田明彦、稲川方人、樋口泰人による座談会の集成であるが、蓮實以後の地平における代表的な映画作家および批評家が、本書の問いかけを踏まえて、新しいアメリカ映画論の構築を試みている。あわせて樋口の単著『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社、1999年)も挙げておこう。これらはむろんほんの一部分にすぎず、本書の問題提起から生まれた成果はほかにも枚挙に遑がないし、そのポテンシャルはまだとうてい汲み尽くされたとは思えない。
「説話論的な経済性」
ここまで本書の「見どころ」を駆け足で見てきたが、ここからは、その中で提示された鍵概念についていささかの補足説明をしてみたい。これらは本文中で明快に定式化されているとはいえ、今後も考えつづけるべき興味深い点を含んでいると思われるからだ。
まず「説話論的な経済性」である。この概念は、蓮實の別の著作と読み比べたときにとりわけ、あるわかりづらさを持つように思われる。どういうことか。「経済性」とは、手数の少なさを指す。より少ない手数でより多くのことを伝えることを「経済的」という。映画がスペクタクル化へと舵を切り、単純な身ぶりをスローモーションで壮麗に引き延ばすやり方は、「説話論的な経済性」の観点からは、まったくの弛緩であるということになる。
さて、「説話論的な経済性」をめぐるわかりづらさとは以下のようなことだ。手数が多いか少ないかを判断するためには、最終的に伝わる物語が「一定」でなければならないと通常は考えられるところであるだろう。「一定」であるからこそ、それを映像で物語るのに効率のよい手段とそうでない手段とがあることになる。しかし、蓮實がとりわけその初期の映画論で強調していたのは、一定の「物語」をあらかじめ前提することなく画面と向き合うことを余儀なくされるのが映画体験であるということだった。たとえば『映画の神話学』(ちくま学芸文庫、1996年。初刊:1979年)は次のような認識から開始される。「われわれがふつう映画と信じているものは、実はその朧げなうしろ姿でしかないのだから、闇の中の一瞬の残像との間に無限大の深淵がある。映画のイメージのより総体的な把握のためにわれわれの前にあるのは、どこにも存在しない空間と誰ひとり経験したことのない時間ばかりだ」。画面の上に生起しては通り過ぎる「残像」をほとんど接触的に手繰り寄せることが映画観賞体験であり、一般的に映画を要約すると考えられている「物語」は、蓮實映画論においては、あえて視野から外されるべきものとされたのだった。
実際のところ、蓮實が「経済性」というときに前提としているのは、大域的かつ静的な「物語」ではない。そうではなく、画面連鎖においてある有意の細部が繰り返し用いられ、そのことによって「機能function」が形成され、或る時間のまとまりがつくられてゆくプロセスである。仮にその「機能」を形成させる主体としての「語り手」を設定するならば、語り手による動的な「説話行為」の有効性が問われているのである。
したがって蓮實が弛緩と言うとき、それはこの「機能」の束の稠密さが失われる事態を指すと理解されるべきであろう。視覚的な刺激を優先させて「スペクタクル化」した映画が否定的に捉えられる理由はここにある。「機能」を読み取ることができないとき、「闇の中の一瞬の残像」を手繰りよせようとする観客の集中は、徒労に終わるだろうからだ。撮影所システムとは、なにより映画をこの弛緩から護るべく機能していたというのが、本書のいまなお瞠目すべき主張である。この主張の効用は、また、撮影所システム下で作られた映画の(またその崩壊後にもなんらかのかたちで延命した)構成における見事さを記述する方途を示している点にある。
「古典」と「透明性」
最後にもう一つ、「透明性」という概念について見ておこう。映画批評においてこの語を人口に膾炙させたのはアンドレ・バザンである。バザンは1980年代後半にハリウッド映画が完成に達し、そのときに「形式」と「内容」は完全に一致すると表現した(『映画とは何か』、岩波文庫、2015年)。画面連鎖はそこで観客にとってまったく不自然だとは思われない水準に至り、映画が指し示すメッセージを誰もが誤ることなく見て取ることができる。そのような意味で映画は「透明性」を獲得するというのだ(バザンが念頭においているのは、パスカルの時代の「古典主義」における、「透明」を理想とする記号の在りようだろう)。バザンが提示した映画史観は、この「古典時代」のあとに、オーソン・ウェルズらによる「モダン」な映画の時代が来るというものだった。
本書の提示するハリウッド史の見取り図も、このバザン以来の歴史観と重なる部分があるように思えるが、しかし、蓮實の映画論はこの「透明性」に対するアプローチにおいて、バザン的なそれとは決定的に異なる。バザンが「古典」をしばしば理想的な過去(失われたあとに見出される「自然」)と捉えたのに対し、蓮實はあくまでその時期の作品を個別具体的に捉え、「透明性」がいかにして「透明性」を獲得するのかを生成論として分析する。その最初の試みが『映像の詩学』(筑摩書房、1979年。ちくま学芸文庫、2002年)所収のフォード論であり、ホークス論である。
偉大な作家の名前をほとんど排除したという本書は、「古典的」なハリウッド映画の「透明性」それ自体を正面から論じるのではなく、むしろ翳っていく過程においてそれを照射するのだと位置づけられる。だからこそ「A級」作家の名前はごくわずかだが言及される。「たとえばハワード・ホークスにしてもラオール・ウォルシュにしても、彼らの才能は、むしろキャメラの存在を意識させないまでにショットの独走を禁じることに発揮されていたのだといってよい」(199~200頁)というように。やはりそれらの名を完全に排除するわけにはいかない。「A面」と「B面」は――そして「透明性」と「不透明性」は、無論のこと幾重にも錯綜しつつ相互に補完しあっているのだから。
「キャメラの存在を意識させない」ということは、無作為の消極的な操作であるわけでは決してない。「自らを透明にする」という倒錯的な戦略がそこでは生きられているはずなのである。だが、すでに透明になり、追いすがろうとする私たちのまなざしにその「残像」だけを残すにすぎないあまりに素早い映像から、その戦略を充分に読み解くことは果たしてできるのだろうか。蓮實映画論はこの困難な問いへの応答として書かれている。刊行が予告されている「ジョン・フォード論」は、おそらく、あいまいな「ハリウッド・クラシック」という神話からこの作家を解放しつつ、「B面」を論じた本書を真の意味で補完する著作となるだろう。
(みうら・てつや 青山学院大学文学部准教授 映画批評・研究、表象文化論)